マタイの福音書5章33–37節
「本音と建前」という言葉があります。何かを勧めた時に「考えておきます」という答なら、多くの場合「断られたかも」と思った方がいいかもしれません。一方、私たちは子供の頃から「指切りげんまん」したり、生活の中でも色んな約束をします。社会は、約束と信頼関係で成り立っています。だから、人が本当に真実でいられるかは、社会の健康度を測るバロメーターでもあるでしょう。
現代は嘘が多い時代ですが、人はいつも何が本当に信用できるかを探しているように思います。ただ、最初の人アダムとエバが惑わす者の声に聴き従って以来、人類はいつも偽りと隣り合わせの生き方をしています。私たちもうっかりすると騙されたり、自分の言葉に偽りが混じることもあります。けれども主は、私たちを偽りから救い出し、真実の内に生かそうとされるのです。
Ⅰ. 偽りの誓いがもたらす混乱 v33-36
主イエスが語った山上の説教では、キリスト者は「パリサイ人にまさる義」(5:20)を行うようになると言われました。今回の箇所はその一つです。「また、昔の人々に対して、『偽って誓ってはならない。あなたが誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」(33節)。人はなぜ誓うのかを考えると、それは自分の言葉が真実だと、相手に信頼してもらうためでしょう。ただ、誓うと言いながら、それが果たされないこともあります。ボンヘッファーは「誓いは、この世界に嘘があることの証明だ」と言いました。確かに、人間が真実しか語らないならば、わざわざ誓う必要はありません。ただ、人の言葉だけでは信用できないので、神を引き合いに出して本当のことを言わせようとしたりします。
当時、パリサイ人の間では、しばしば神殿や祭壇にかけて誓う習慣があったようです(マタイ23:16-22)。しかもモノによって、その誓いを果たすべきかどうかの重さが全然違うように考えられていたのです。その結果、必要ないことまで誓うこともあれば、逃げ道も用意されていました。してもしなくてもどちらでもいい形だけの誓いや、初めから行う気がない軽い誓いもあった。だから、本気の誓いも、何となく言った言葉も同じように聞こえてしまう。言葉が軽いのです。現代に生きる私たちはこんな状況を知り、愚かに思います。でも、案外似たようなことは、今も身近にないでしょうか。建前、社交辞令、お世辞、上辺だけの約束。そんな内実の伴わない言葉の用い方を、主は責められたのでした。
パリサイ人の義は、律法の文字に囚われ、本来そこに込められたこころを見失ったものでした。そんな偽る態度に対して、主イエスは言われます。「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません」。クエーカーと呼ばれるグループでは、これを文字通りに受け止めてどんな誓約もしないそうです。ただ、誓い自体は聖書で何度も出てきます。ですから、このみことばは文字通り全ての誓いを禁じたというよりも、誇張表現を用いて偽りの誓いを禁じていると思われます。そもそも、普段の生活で何でも誓うのは異常です。本来、人が口にする全ての言葉には誠実さが求められるからです。一言で言えば、「自分が語る言葉に責任を持て」ということでしょう。
主イエスは、天・地・エルサレム・自分の頭にかけて誓ってはいけないと言われます。何を指して誓おうとも、それは神の前で誓っている事に他ならない。真実を語ることを実践する鍵は、「いつも神のみ前にいる」という意識でしょう。それは祈りなくして絶対にできないことでもあります。私たちの語る言葉は、いつも神の前で聞かれている。その自覚を持って生きる先に、私たちが語る言葉は自ずと変えられていくのではないでしょうか。
Ⅱ. 真実なことばを語るために v37
さらに、主イエスは「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」(37節)と言われました。これは一体何を言おうとしているのかというと、事実を事実とし、真実を語ることです。わざわざ神の御名や自分にまさる権威を持ち出さずともよい。自分が理解していること、責任が取れることを語れというのです。
では、それは「思ったことは何でもすぐ口にすればいい」ということでしょうか。そうとも限りません。「愛を持って、真理を語れ」(エペソ4:15)というみことばもあります。正しいけれど愛のない言葉もあれば、相手を気遣いすぎて言うべきことを言えないこともある。また、自分の思いを全て吐き出して相手にぶつけることが、いつも相手を建て上げるとも限らない。そこで何を言うか言うまいかは、祈りつつふさわしい時をわきまえる必要もあるでしょう。
神のみ前に聞かれて恥ずかしくないように、「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」といつも言えているか。むしろ、自分の都合に合わせて嘘をつくことがないでしょうか。ペテロは仲間内だと「私はイエス様の弟子だ」と胸を張って言えました。一方、都合が悪い状況になると、その場その場で取り繕って生きるのです。そんな私たちの不真実の罪こそ、主イエスを十字架にかけて殺したものでした。ですが、主イエスは3日目に神の真実によってよみがえられた。そうして私たちの罪を贖って、新しくして下さる。その贖いは、私たちの語る言葉にまで及びます。キリストはこの不真実な私たちのために死なれ、真実な者に造り変えようとされるのです。
その上で、「それ以上のことは悪い者から出ている」(37節)という言葉にも注目したいと思います。サタンの別名は「偽りの父」であり、悪魔はその手先として、私たちを偽りの中に迷い込ませようとします。悪魔は私たちに囁き、神の「はい」を「いいえ」と思わせようとします。神の愛や恵みを信じられなくし、真実なみことばを嘘だと思わせる。逆に、神の「いいえ」を「はい」と信じこませて、みこころを踏み越えさせようとする。そうして自分の目に正しいと思うことを行い、罪を犯すのです。
アダムとエバは神様から自分の罪を問いただされた時、責任転嫁しました。絶対に自分の正しさを手放さない所に、神の前での真実が失われた罪人の姿があります。その嘘は私たちの交わりをも壊します。ですが、自分のそんな不真実を知らされて主にすがる者を、神は新しくしてくださいます。
そのために、私たちは礼拝で神の「はい」を「はい」として、「いいえ」を「いいえ」として聞くのです。神の言葉はむなしい方便や建前ではなく、永遠に残るものです。その変わらない神のことばに生かされるなら、私たちのことばもきよめられていく。祈る先に、愛をもって真実を語る勇気も与えられていくでしょう。
キリスト者は、神の御前に生きる者として、裏表のない真実なことばを語ることに召されています。私たちの語るあらゆる言葉を、神は聞いておられる。これを忘れずにいる時、私たちの語ることばは自ずと変わっていきます。偽りやごまかしではなく、真実を語ろうと心がけるようになります。家族を裏切らず、友をだまさず、普段関わる人たちを欺かない者となっていく。そうして私たちは自分が語ることばにおいても、真実な神に似た者に変えられていくのです。逆に、嘘の中に生き続けるならば、私たちの中で嘘が本当になってしまいます。ですが、偽りの世から救われた私たちは、真実な神のことばに導かれ、偽りの内に住むのではなく、真実に生きるようにと招かれています。本来持っている言葉の価値を取り戻し、真実な言葉を語るものでありたいと願います。