「どこから来て どこへ行くのか」 教会標語⑩

「どこから来て どこへ行くのか」

2018年11月

教会標語⑩

創世記 16章1-9節

牧師 松元 潤

この聖書のことばは、ポール・ゴーギャンの絵画「我々はどこから来たのか・我々は何者か・我々はどこへ行くのか」を思い出させます。ゴーギャンはカトリックの神学教育を受けたにもかかわらず救いの確信を得ることがなかったのか、先の問いは彼の人生の最後まで抱き続けた問いだったようです。今日の聖書のことばは、苦しみから逃げて遠くへ向かう女奴隷ハガルに向かって神が語りかけられた「あなたはどこから来て、どこへ行くのか」ということばです。私たちもまたそれぞれに人生の苦しみ・悲しみの中で、今生きている場所から逃げ出したい、もう関わりたくない、という感情を体験することがあるでしょう。ハガルも何一つ自分の意思で選び取ったことではないのに、奴隷として仕える女主人の命令に従った結果、理不尽な苦しみを受けるようになったのです。ハガルにとっては割に合わない境遇というしかありません。しかし、そうであっても神は、今あなたがいる所は神が生かし与えておられる場だと語りかけるのです。私たちも出来事や環境に支配されることなく、自分自身は本来どこから来て、誰のもので、どこに向かって行く存在なのかを考えてみたいと思います。

Ⅰ.第1に、私たちは、自分が「どこから来たのか」をどのような状況の中でも考えなければならない存在である、ということです。

神はアブラムが75歳から繰り返し、子孫の祝福を約束しておられました。75歳の最初の約束の時さえ、受け止め難い約束でした。年齢を考えると、最初の約束の段階から数年のうちに出来事が起こると期待するのが自然でしょう。しかし、最初の10年が過ぎても一向に子どもは与えられなかったのです。「期待が長引くと、心は病む(箴言13:12)」とあるように、様々な試みがアブラムの内に起こったのです。

一族の期待、夫の期待、重圧はサライの身にもかかっていました。サライは「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。(2)」と夫に告げます。年齢を考えれば、身体的な原因はどちらの問題でもなかったでしょう。しかし、サライは自分の責任を感じていました。そして、約束と現状が矛盾している理由はわからないけれども、神がなさっていることだと受け止めているのです。サライの胸の内には複雑な感情があったでしょうが、サライは意識せずして人間がどこから来るのかという根本的な命題に対する答えを信仰によって告白しているのです。

ところが、サライは人間的な手段を使って、神の約束を自分の力で実現しようとします。神の約束は“夫のアブラム自身から生まれて来る者が跡を継ぐこと”でした。サライは、自分以外の女性を通してアブラムから、と考え始めたのです。女性としては10年忍耐して、悩み抜いた上の決断だったでしょう。「どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう(2)」と進言するのです。自分から言いだすしかない、・・・しかし、できれば夫が拒絶してくれれば・・・追い詰められた不妊の妻の複雑な女心が想像できます。残念ながらアブラムはあっさりとサライの要求を受け入れました。サライは、主の約束のことばと矛盾しない方法を自ら考え出して実行したのです。

命の主権者は、生けるまことの神である主です。すべての人間は、この方から来ています。ですから、サライは最後までこの神のことばを信じるべきでした。でも、現実の苦しみをなんとか取り除こうとするあまり、また自分の責任を果たそうとするあまり、愛する夫の悲しみも考えるあまり、自分が考えた方法によって神の約束を勝手に実現に至らせようとしたのです。私たちの命は主からのものです。そしてこの主が私たちの人生を導いておられ、今私たちの生きる場所を与えておられます。だから、どんなに苦しい状況の中でもこの主を信じて待ち、主の約束のことばを見失わないことが、私たちのなすべきことなのです。「あなたはどこから来たのか」という自分の原点を思い出し、主に期待し続けて歩みたいと思います。

Ⅱ.第2に、私たちは自分が「どこへ行くのか」を知って、主の用意しておられるゴールを目指して歩まなければならない、ということです。

サライの願いを受け入れたアブラムは「ハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。(4)」と、却ってサライ自身が苦しむ展開になっていきました。奴隷が主人より優位な立場に立ったのです。アブラムは大富豪の族長ですから、サライの立場も高かったでしょう。ハガルは昨日まで、サライに対して絶対服従でした。ところが、正当な妻の立場で夫にも十分愛されている身でありながら長い間妊娠しなかったサライからみれば、ハガルが簡単に妊娠したことで立場が逆転したのですから心穏やかではなかったでしょう。サライは自分でも予想しなかった妬み・怒り・憎しみに苦しみました。サライは夫に向かって「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです(5)」と逆上します。

サライにとってハガルの妊娠は、自分の忍耐・犠牲があったからだと思うと今の人間関係はなお承服できません。「この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽くみるようになりました(5)」と訴えました。処理できない怒りと妬みの解決に自分の感情を自制できないまま「主が、私とあなたの間をおさばきになりますように(5)」と言い放ち、アブラムの応答を求めたのです。アブラムはサライの勢いに流されるまま「偽りの中立」の立場を取り、「あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい(6)」と何の解決も示しません。結局「サライが彼女を苦しめたので(6)」ハガルは逃げるようにして家を出て行くのです。

当てもなく逃げ出したハガルに主の使いが優しく声をかけます。「サライの女奴隷ハガル。あなたはどこから来て、どこへ行くのか。(7)」と尋ねました。ハガルが理不尽な仕打ちを受けていたことは間違いありません。だからハガルも「私の女主人サライのもとから逃げているのです。(8)」と答えました。それにもかかわらず、主の使いは「あなたの女主人のもとに帰りなさい。そして、彼女のもとで身を低くしなさい。(9)」と意外な答えを示したのです。「身を低くする」とは、自ら苦しみを受ける姿勢を意味します。自主的に苦しまなければならないとは、いったいどういうことでしょうか。ペテロは手紙の中で全てのクリスチャンに対して「しもべたちよ。敬意を込めて主人に従いなさい。善良でやさしい主人だけではなく、意地悪な主人にも従いなさい。(Ⅰペテロ2:18)」と勧めています。神の民とは、キリストの苦しみに与る者だからです。だから、私たちも十字架で私たちの罪のために死んで行かれたイエス・キリストの苦しみを思い出さなければなりません。キリストは自ら、私たちに対する愛のゆえに十字架につく苦しみを選んでくださったからです。この十字架の苦しみに与る人生が神の栄光のゴールに向かう者の生き方なのです。

ハガルにはハガルの栄冠が神によって用意されているのです。神はハガルを見捨てず、ハガルの子イシュマエルの子孫への祝福も約束なさいました。私たちも今それぞれが抱えている問題が、目に見えて願い通りに解決することはないかもしれません。でも、必ずしも苦しみから逃れることが神の道ではないことを知っておかなければならないでしょう。私たちは神から来て、神の元に帰って行くのです。そこに本当の栄光のゴールがあります。私たちはいったい、どこから来て、だからこそ誰のもので、何を目指しどこに向かっているのか、神のメッセージを忘れないで歩みたいと思います。