「悪い者に手向かうな。右の頬を打つ者には左の頬を向けよ。自分を訴えて剥ぎ取る者には、もっと良くしてやれ」。この主イエスのことばを、どのように思われるでしょうか。
Ⅰ. 不可解な教え
「目には目を、歯には歯を」(38節)は、律法だけでなく、イスラエルの周りの国々で有名な教えでした。いかにも野蛮に思われるかもしれませんが、実は現代の法律に通じる原理です。人間は相手から受けた損害以上に、仕返しする傾向があります。そこで「目には目を」という教えは報復の連鎖を断ち切るためのものでした。もしこの精神が完全に守られたら戦争は起こらず、あってもすぐ終わるでしょう。でも、私たちの心は、された事以上にいくらでも仕返ししたい。だから、問題が大きくなるのです。
そんな状況で、主イエスは言われます。「しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。」(39節)この言葉を聞いて「正気ですか…?」と問いたくなります。悪い者がいたら、それを正して懲らしめるのが正義ではないでしょうか。
でも、主イエスは私たちが抱く復讐心に反対されるのです。これは非常識に思われます。ただ、ここで手向かってはならないと言われるのは、あくまで「悪い者」であり、悪自体ではありません。主イエスもパウロも、頬や体を打たれた時に抗議しました。それはその扱いが不当なものだったからです。クリスチャンの柔和さは、柔弱さではない。一方で不正や悪に対しては抗議する。他方で、自分が侮辱されても、それを甘んじて受け入れることができる。それが両立するようなあり方こそ、ここで言われる生き方です。また、再び思い起こすべきは、これを語られたのが主の弟子であることです。これは御霊によって新しく生まれたクリスチャンだけが、実践できる事柄です。
Ⅱ. 自分を手放す4枚の絵
39節後半から、その具体例が4枚の絵のように描かれます。一つ目のイラストは、39節「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」というものでした。この頬を打つというのは、単に相手を痛めつけるだけではなく、中東文化では最大の侮辱を表すものでした。自分が馬鹿にされ、恥をかかせられることは、様々な形であり得るでしょう。誰かから無神経な言い方をされたり、不当にけなされる。例えばそんな時、生まれつきの私たちは相手に怒り、仕返ししたくなります。でも、主は個人的な復讐をするのでなく、もう一方の頬を向けるほどの寛容を示せというのです。
次に、40節の言葉です。「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい」。これは告訴とあるように、裁判の場面が想定されます。当時の「下着」は現代でいう普段着、「上着」は毛布のようなオーバーを指します。ちなみに、当時の上着は貧しい人にとって、寝る時の布団代わりになった生活必需品でした。ですから、上着を取ることは律法で禁じられ、たとえ質に入れても、夕方までに返すことになっていた。でも、主イエスはそんな上着さえ気前よく取らせる位の姿勢で生きろと言われる。つまり、「権利を主張し合うならば、果てしなく争いが続いていく。だから自分の権利にこだわるな。求められた以上に与えるほどになれ」と挑戦されるのです。
3つ目の例は、41節にあります。「あなたに1ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に2ミリオン行きなさい」。当時、ローマの兵隊はユダヤ人を強制労働に動員し、荷物を運ばせることがありました。1ミリオン(約1.5km)歩かされ、不平を言いつつ従う代わりに、一緒に2ミリオン行き、喜んで応答せよというのです。もしこんな人がいたら、命じた側も驚くでしょう。
最後は42節です。「求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません」。教会には、生活に困ってお金や食べ物が欲しいと言う人も来ます。ただ、全部言われた通り応えることが正しい訳でもなく、知恵が必要です。本当に相手が困っている時に助けることもありますが、逆にむしろ断ることもある。そのような態度は実は両立し得るでしょう。
ただ、ここで主イエスの言わんとする態度は、自分の権利や持ち物に固執せず、困っている人を助ける姿勢なのでしょう。生まれつきの私たちは、どこまでも自分の権利や損得にこだわり、それが脅かされると猛反発します。復讐とは最も己を主張し、ひたすらに自分を守ろうとすることです。自分の心を傷つけ、脅かす者には容赦しない。ただ、そこで行う自己主張は、本当に私たちを自由にするでしょうか。むしろ、やりすぎてしまったと感じたり、さらなる憎しみと復讐を招き、苦々しい思いに駆られることもあります。無限に仕返ししても解決はなく、何の慰めにもなりません。
その自己主張をやめるには、自分を捨てること以外にありません。それは自然にできることではなく、そこに意味を見出せないとできません。それならば、私たちが自分を捨てるのは、神の栄光のために、また相手の救いのためにのみ、なし得ることです。
Ⅲ. キリストの模範
ここで、実際にその通り生きられた主の姿を見たいと思います。主は裏切るユダに先手を打つこともできた中、彼に身を任せ、戦闘態勢になっていたペテロに剣を収めさせました。それでいて、大祭司の尋問には積極的に挑みつつ、真実な告白をなさいました。不正に対しては抗議しつつ、頬を打たれました。また、その最たるものは、「父よ、彼らをお赦し下さい」と十字架上で祈った姿でした。
後に、ペテロはその主の姿をこう記します。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。」(1ペテロ2:21-24) これは人間的には困難極まりないものです。私たちの内には復讐や自己主張を好む、古い自我があります。ですが、御霊によって新生した人には可能とされていく。人にはできないことが、神にはできるのです。
世の常識では「やられたらやり返せ」と考えます。ですが、神の国に生きる人は、主を信じることで、仕返しの論理を越えて行動できるようになります。悪魔は私たちに囁きます。「気に食わない奴がいれば、気が済むまでやり返したらいい。それは当然の権利だ」と。そうして復讐の思いが心に宿ると、それが果たされるまで私たちの心をとりこにしてしまう。相手もそうですから、いつまで経っても関係は回復しないのです。
でも、聖書はそこから自由にすることばを語ります。「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。⋯悪に負けてはいけません。むしろ、善を持って悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:19, 21)。このみことばに従う時、報復は連鎖せず、片道だけで終わります。そうして私たちは平和を作り出すものとされる。主イエスは言われます。「義のために迫害される者は幸いです。あなたは仕返しなどしなくていい。それほどまでに祝福されているのだから」と。それは、自分の力で我慢するのとは違います。御霊の働きによって、恵みによって初めて可能になる自由への招きです。主イエスは私たちに語ります。「仕返しするのではない。むしろ善をもって悪に打ち勝て」と。その時、あなたは報復の連鎖を断ち切り、平和をつくる者とされるのです。