「全き者であれ」

「全き者であれ」 

2019年2月

創世記 17章1-8節

牧師 松元 潤

キリスト教信仰は、神と神を信じる者が人格的な関係を結んで行く信仰です。神と自分、そして目に見えない神との関係に育てている愛を目に見える隣人との関係に現わして行くのが私たちの信仰生活です。

以前に、1960年代に発表されたハリー・ハーロウのアカゲザルの実験についての記事を読みました。そこには、猿がどのようにして成長して行くのかを親との関係、そして仲間との関係という視点で針金の親、ふわふわ毛布の親、親との関係しかない子猿、仲間と遊んだ子猿、というように様々に環境を変えて実験して考察したことが説明されていました。そしてスキンシップのできる親との関係が結ばれている上で仲間と遊んだ子猿の成長が理想的だったという結果から、人格が育つための大切な要素が発表されていたのです。私たちの信仰も、神との縦軸を土台に横軸のクリスチャンの兄弟姉妹から教えられ学び成長して行くものでなければならないでしょう。

アブラムに向かって神が命令された「全き者であれ」ということばは、私たちすべての信仰者に勧められている神の命令です。しかし、それは自分流の正義感や倫理観を意味しているというより、神の前に生き神を慕い神のことばに聞いて神との関係を生きる時に「全き者」とされるということです。改めて、聖書が語る「全き者」の生き方をご一緒に考えてみたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、私たちが神と共に歩む「全き者」としての信仰生活は、今までの自分とは違う新しい出発をしなければならない、ということです。

さて、アブラムが99歳のとき、主はアブラムに現れ(1)」

突然神の命令が伝えられました。サライが画策し、女奴隷ハガルによってイシュマエルが生まれてから、13年の歳月が流れていました。13年前でさえ、アブラハムが75歳で故郷を離れた時に子孫の祝福を約束されてから10年以上も経っていました。だから、彼らは自分たちの力で何とかしなければならないと考えてしまったのです。待つことがどれほど難しいかを考えさせられます。サライとハガルの間に起こった葛藤は、アブラムの家庭に問題を投じることになりました。ハガルは一度はアブラムの家に戻ったものの、イシュマエルは「彼は、すべての兄弟に敵対して住む(12)」と預言されていたような存在でした。一つの家庭に二人の妻という複雑な環境の中で夫婦のストレスは大きくなり、さらに以前より歳を重ね、望みは絶望的と言えました。アブラム、サライ、ハガル、それぞれに限界だったでしょう。まさに、そのタイミングで主がアブラムに現れ「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前に歩み、全き者であれ」とお語りになったのです。

主はご自分の性質を「全能」と明かしておられます。このことばは、創世記において祝福と繁栄の約束がなされている場面で使われています。神は祝福と繁栄をもたらすというご性質において真実な方であるから、その神の約束を信頼する「全き者であれ」と命じているのです。「全き者」ということばは、いつも神に対して心を向けている点で心がまっすぐな者、という意味だからです。神がアブラハムの人生において彼に語りかける時、そこではいつも互いの間に結んだ契約が意識されています。だからこの文脈では私たちの考える道徳的な正しさというより、神との関係を強調していることばなのです。全き者であるためには、主の前で生きる、ということが求められているということです。同時に、主の見守りによって主の前で生きていないなら、全き者であることは不可能だということでもあります。神のご性質を知るとき、私たちはこの方を信頼すればいいことがわかるはずです。

アブラムの現状は、子どもが与えられることにおいては絶望的に見えました。しかし、だからこそ、アブラムは目に見えるものが全てではなくて、アブラムの祝福を願っておられる真実な神への信頼こそが最も大事なことだと意識しなければなりませんでした。あらゆる人間的な望みが取り去られて神を信頼するしかないところに明確に立ったときに、彼は神との関係において新しい生き方を得たのです。そして、アブラムからアブラハムという新しい名前となって出発することになりました。私たちも神との関係において、今までの自分の考え方や習慣の延長ではなくて、神に信頼し神のことばに聞く新しい生き方を始めているでしょうか。

 

Ⅱ.第2に、私たちが神と共に歩む「全き者」としての信仰生活は、神との関係を継続的に積み上げていくものである、ということです。

アブラムに「全き者であれ」と命じた主は、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたを大いに増やす(2)」と契約の再確認をされました。ここで強調されているのは「わたしの契約」ということばです。この契約は神が一方的に結んでくださり、神が祝福してくださり、神がご自分の約束を守る契約なのです。だから、わたしとあなたの契約とはおっしゃいませんでした。アブラムやサライは思いわずらい、人間的な方法を画策してきました。それはことごとく失敗したり、家庭に問題を生じる結果になりました。とうとう万策尽きて、人間の側の可能性はゼロになっていました。そのときに、神はご自分のご性質を明らかにし、この契約は振り返って初めから神ご自身の力・ご性質に基づいて実現するものだったということをアブラムに再認識させたのでした。神にご真実に守られて自分の今までの人生があったことを自覚した「アブラムはひれ伏した(3)」のです。

神は約束をあっという間に実行することができる方です。ご自分で相手が失敗しないように監督し、完璧な道を歩ませることができる方です。しかし、神はそのようにはなさらないのです。なぜでしょうか。神との関係を、信仰者自身が自分の弱さや現実を自覚しながら育てていくことに意味があるからです。神が繰り返し確認なさった契約の内容は「わたしは、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます子孫に富ませ、あなたをいくつもの国民とする(5,6)」というものでした。それまでの名前のアブラムは「父は高く崇められる」という意味でしたが、新しい名前のアブラハムは「多くの者の父」でした。この名前は、初めの神の約束、今までの神との関係、変わらない神のご真実を思い出させる名前だったのです。新約聖書においてパウロはアブラハムの信仰を「彼は望みえない時に望みを抱いて信じ(ローマ4:18)」と証言しています。これはアブラハムが立派な信仰を持っていたということではありません。事実、創世記を振り返ると、疑いや失敗や過ちが目立ちます。パウロが言いたいことは、アブラハムが自分の弱さと向き合い悔い改めながら、最終的にどこに立ったかということでしょう。アブラハムは今まで積み重ねてきた神と自分の関係から「神には約束したことを実行する力がある(ローマ4:21)」と確信して最後の試練を経験したのでした。

アブラハムは失敗や過ちを繰り返しましたが、そのことによって神から離れるのではなく、却って神に近づき神の前に悔い改めては神と共に歩む人生を生きてきました。そして、どんな時にも変わることのなかった神のご真実を体験してきました。だから、この永遠の契約は、アブラハムの死後も、イサクになっても、ヤコブになっても、ヨセフになっても、神のご真実なご性質のゆえに守り通されて行きます。主なる神は私たちを祝福したいと願っておられる神です。「主はあわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富み、恵みを千代まで保ち、咎と背きと罪を赦す(出エジプト34:7)」のです。思い通りにならない出来事や人間関係に支配されることなく、神の真実な約束を示す聖書に立って、神との関係を育て続ける信仰者でありたいと思います。