「地は堅く立っています」 新年礼拝

「地は堅く立っています」

2019年1月 新年礼拝

詩篇 119篇89-96節

牧師 松元 潤

今年は詩篇119篇のヘブル語12番目ラメッドで韻を揃えた段落です。詩篇119篇は、神の教えである「みことば」が私たちの喜びであるという中心メッセージが全体に流れています。それを作者は、「もし、あなたのみおしえが私の喜びでなかったら(92)」と、自分が信仰を持っていない場合どうなっていただろうと想像しています。今の自分の状況と正反対の方向から自分の人生を振り返ってみているのです。みことばが自分の人生の喜びでなく、神の教えである聖書を私たちが知らなかったとしたら、私たちもまたどうなっていたでしょうか。

一人の女性が結婚後、重度の障害を持つ子どもが与えられて死のうと思い悩んでいたときに、かつて学生時代にチャペルで聞いた聖書のことばを思い出したそうです。その学校の院長先生宛の手紙には、「聖書のことばによって、与えられた子どもが神が自分を選び信頼して預けてくださった証であるということに気づいた」と記されていました。神の教えである聖書のことばは、彼女の人生の見方を根本から変えました。神のことばである聖書が「地は堅く立っている」という揺るぐことのない基準を示してくれるとき、私たちも自分の人生の苦しみや悲しみの捉え方が変わるのです。

 

Ⅰ.第1に、私たちは神の造られた世界に置かれ生かされている者なので、最終的な希望は神にあります。その視点から今の現実を見ることが自分自身を助けるのです。

風景を眺めるとき、どの位置から風景を見るかによって、見える風景が変わります。

人生について考えるときも、どの時間どこを起点として物事を捉えるかで全く違ってくるでしょう。作者は「あなたのみことばは、とこしえから天において定まっています。・・・・・あなたが地を据えられたので地は堅く立っています。   

(89,90)」と、神のことばが人類の歴史以前から存在し、それが世界の基を据え、据えられたものはずっと変わっていないという事実を強調します。世のすべての基、絶対的な基準を土台に、神はすべてのものを造られたのです。私たちは人間関係の中で愛し合うことが最も大切だと考えるのですが、愛が育つためには共有できる基準が必要だということに気づいているでしょうか。たとえば、常に気まぐれに基準が変化し定まっていない環境の中では、子どもは親に対して安心感を持てないでしょう。世の初めからある変わらない基準を前提としなければ、被造物の安定的な関係は育たないのです。神は、定まっていたもの、堅く立っているものの重要性を語ります。神が定めた世界の基の確かさがあるから、私たちは見るべきこと聞くべきこと向かうべき方向を理解して人間社会が成立するのだというわけです。

さらに「それらは今日もあなたの定めにしたがって堅く立っています。万物はあなたのしもべだからです。(91)」と、人間を含めた被造物すべてが世界が創造された以前から存在しておられる真の神に従うべき存在であることを告白しています。この「定め」ということばは、裁きや判決を意味します。世界は「ことば」によって造られました。だから、この世界を正しく裁くことができるのは、この方だけです。その永遠の神の教えである「ことば」によって守られ支えられているから「地は堅く立っています」と作者は告白します。人間が生きる意味、生きる目的、ともに築く関係、人生のゴールを指し示している神のことばは、決して揺れ動くことなく失われることのない安心して従うことのできるものなのです。作者は、その確かさ、堅固さを強調する表現を繰り返しています。それが、私たちが生きる土台として大切なことだからです。

その上で「もし、あなたのみおしえが私の喜びでなかったら、それなら私は、私の苦しみの中で滅んだでしょう(92)」と、もし神を知らず、神のことばを聞くこともない人生であったなら自分は今どうなっていただろうかと想像します。その答えは、いのちを失う滅びの道しかない、ということでした。私たちも神と出会っていなかったなら、また聖書の教えを知らなかったら、どうなっていたでしょうか。聖書は私たちにとって、苦しいとき、悲しいとき、迷ったとき、疑いが消えないときに立ち返る場所です。私たちが最終的に自分自身の人生の大切な岐路において選択を迫られるとき、立ち戻る基準です。それを失ったら、今の私たちはいないのです。希望を持って自分の試練を受け入れる力もありません。物事を見るところ、人間関係を見るところが神のことばによって揺るぐことなく定められていることを感謝したいと思います。

 

Ⅱ.第2に、神のことばによって地は堅く立っていることを前提にして、私たちは悪が満ちているこの世において神の教えを聞き分けなければなりません。

堅く立っている地に生かされている私たちの使命は、その基を造られた神の教えである神のことばに聞き従うことです。作者はそのことを理解し、そのためにみことばを大切にする生き方を「私は決してあなたの戒めを忘れません。(93)」と告白します。でも気持ちを表しているのではありません。みことばを一番大切にしなければ、と思っているのには根拠があるのです。だから、その理由を「それによってあなたが私を生かしてくださったからです。(93)」と説明しています。作者は現実に神のことばによって命を助けられた経験を持っているということです。93節を直訳しますと「私は永遠にあなたの数々の命令を忘れません。なぜなら、それらによってあなたが私を生き返らせてくださったからです」となりますから、死んだも同然だった者が神の教えに出会って命を取り戻したと証言しているのです。

この作者はダビデです。ダビデの人生を振り返ると、バテシェバとの姦淫の罪が思い出されるでしょう。ダビデは、バテシェバの夫ウリヤを戦場の最前線に追いやり死に至らしめ、彼女を奪い取る大罪を犯しました。しかし、預言者ナタンに神のことばを突きつけられたとき、ダビデはその罪を全面的に認め悔い改めたのでした。神のことばを真実に聞き入れ従ったダビデに対して、神はその罪を赦す「判決」を下したのです。ダビデは、罪によって滅ぶべき自分のいのちを、神のことばに聞き従って取り戻したのでした。ダビデが偉大な信仰者と言われる所以は、彼の倫理観でも能力でもなく、まさに神のことばに立ち返る真実な信仰にあると言えます。この世はサタンが支配する罪の世です。その世に生かされている私たちに本当に選ぶべきこと、進むべき道を、神の教えである神のことばだけが正しく示してくれるのです。

教会もまたこの世の影響を受けた一人一人の集まりですから、それぞれに失敗があり、自分を正当化して交わりを壊したり、世の考え方や価値観をそのまま持ち込んで強い主張をしたりして、その結果争いが起こります。そのような罪人の群れであるからこそ、「誰の声に従うか」という問題は教会にとって重要です。ダビデは羊飼いとしての自分の体験上、羊にとって最も大事なことは真実な飼い主の声を聞き分けることであると知っていました。だから「私は、あなたのさとしを聞き分けます(95)」と語ります。羊の大切な役割は、自分の命を守るために真実な羊飼いの声を聞き分けること、真実な羊飼いのことばを選び分けて従うことなのです。イエス・キリストは「わたしは良い牧者です」とおっしゃり、ダビデ自身も「主は私の羊飼い」と告白しました。

新しい年私たちも、自分の感覚や感情を他者に押し付け合う判断ではなく、好き嫌いや自分の主義主張に合うか否かの判断でもなく、神の教えであることばを聞き分け従うことができるようにと祈ろうではありませんか。神のことばは、あなたのいのちを守り、教会を教会として守ってくれるものなのですから。