「契約のしるし」

2019年3月

創世記 17章9―14節

牧師 松元 潤

信仰は、目に見えない世界を聖霊の助けと真理を学び続けることによって豊かになって行くものです。ヨハネは「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」と、目に見えない神との関係を考える上で大切なことを語りました。しかし、目に見えない方との関係を育てて行くためには、目に見える関係や出来事が助けになります。神は、神との関係を人間が理解できるように「しるし」をお見せになっています。

今日のところで語られている「しるし」は、神と人間の間の契約の保証を示す「しるし」としての意味を持ちます。聖書が示す「しるし」の中で、この契約の保証を意味する「しるし」として表されているものは3つです。一つ目は、大洪水の後、箱舟で命を守られたノアたちの前に現してくださった虹の「しるし」です。虹は、二度と地を滅ぼすことはないという神の約束の保証でした。二つ目は、今日のアブラハムに対して命じられた割礼の「しるし」です。すべての男子の割礼は、神の契約の保証をイスラエルの民に思い起こさせるものでした。三つ目は、安息日の礼拝です。礼拝もまた、神と私たちの間に結ばれている約束の確かさを思い起こさせる「しるし」なのです。今日はアブラハムの人生において語られている上記の第二の「しるし」である割礼について考えたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、神と私たちの「契約のしるし」は、私たちには守り従うべきことがある、ことを示しています。

神は私たちがどのように弱く愚かな歩みをしてもご自分の約束を必ず守るという意味で「わたしの契約」と宣言されました。しかし、圧倒的な神の恵みと愛に基づいた契約でしたが、契約を結んでいただいた私たちもまた、私たちは神のものであるという「しるし」を身につけることが求められました。それが「あなたがたの中の男子はみな、割礼を受けなさい」というものです。割礼ということばの意味が「切り取る」であるように、神は11節で「あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい」とお命じになっています。割礼は生殖器の包皮の肉を切り取るのですから、生まれて間もなくの赤ん坊ならともかく、アブラハムたち一族の成人男子にとって激しい痛みを伴う恐ろしい儀式と言えました。なぜ、これほどの「しるし」を神は課したのでしょうか。これから神の民であるアブラハムに始まる民族にとって本当の神だけを神とする生き方が命懸けの戦いであったからです。彼らは割礼の儀式の痛みを意識することによって、もっと厳しい偶像社会との戦いを覚悟しなければなりませんでした。

イスラエル民族は割礼の儀式を繰り返すたびに、神との契約を思い出し、神の愛・神の憐れみ・神の恵み・神のみわざを思い出し、神のことばに従う決意を新たにしたのです。割礼は、その「しるし」でした。結婚式の司式において指輪交換の際、私は新郎新婦に向かって「愛の誓いのしるしとして」ということばを伝えます。結婚したカップルにとって指輪そのものが大切なのではなく、指輪を見てその意味を意識することが大切なのです。そのように「しるし」の役割は、目に見える「しるし」を通してそこに込められた関係や意味を思い出すことにあります。神はモーセを通して「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただあなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、いのちを尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたの幸せのために・・・あなたに命じる、主の命令と掟を守ることである。・・・あなたがたは心の包皮に割礼を施しなさい(申命記10:12-16)」と命じています。神のことばに聞き従う立場を表すものが、割礼という「契約のしるし」であるということなのです。キリストによって、現代の私たちは割礼を受ける必要がありません。しかしパウロは「この身にイエスの焼き印を帯びている(ガラテヤ6:17)」と証言しました。私たちがイエスの焼き印を身に帯びて生きるとは、キリストを愛することでありキリストのことばに従うことです。そして、それは今の私たちの神との関係を現わす「しるし」なのです。

Ⅱ.第2に、「契約のしるし」として神が人間に与えた割礼が持っている意味を考えてみましょう。具体的に3つの意味を考えることができます。

①一つ目に「契約のしるし」として命じられた割礼は、自分自身を献げるという意味を持っています。

生まれて八日目に受けるべきとされた割礼は、一人の人間の人生が神のものとして始められることを意味しています。なぜなら、律法においては牛や羊についても「七日間、その母親のそばに置き、八日目にはわたしに献げなければならない。(出エジプト22:30)」と定められていて、地上に生を受けたものが母親から離れて別の存在となることが明らかにされているからです。つまり、8日目は生まれた子どもが独自の命を生きる出発として意識されているのです。割礼は、その人と神との人格的交わりの始まりです。現代において、割礼は洗礼に当たるでしょう。私たちも一人一人が個別に神との関係を生きる者となるのです。いつまでも他の人の真似に終始したり他の人と一緒でなければ何もできない、というのではなく、神に対して自分自身を献げて歩む者でありたいと思います。

②二つ目に「契約の印」として命じられた割礼は、私たちにすべての人のために神の祝福を与えていく役割を与えているという意味を持っています。

割礼が命じられたのは、アブラハムからの純粋な血筋の男子だけではありませんでした。「家で生まれたしもべも、異国人から金で買い取られた、あなたの子孫ではない者もそうである。(12)」とあります。このことは、契約のしるしとしての割礼が普遍性を持っていることを示しています。奴隷も含まれるので、社会的な立場も超えています。また、民族の違いも超えています。契約の民の祝福が及ぶ範囲は、大きな広がりを持っているのです。神はアブラハムを通して、すべての人に祝福の窓を開いておられました。私たちも、私たちと神との関係から多くの人たちに祝福を分け与えて行く存在なのです。分かち合うべき神の祝福のしるしを刻んで歩んでいるでしょうか。

③三つ目には、「契約のしるし」として命じられた割礼は、罪を断つ交わりをする神の民のしるしを意味しています。

割礼は激しい痛みを体験し、その傷跡は衣服を脱げば誰の目にも明らかに残っているものでした。「わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉に記されなければならない。(13)」とあるように、目で確認できるしるしであったのです。神の民としての独自のアイデンティティーを示す割礼は、罪との分離も意味していました。神の民である信仰者は、世の罪と分離する者、罪から離れた生き方をする者であることが求められたからです。だから、「包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、自分の民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったからである。(14)」と厳しい宣告がなされています。神の民として神から祝福を受けている者は、常に自分自身の罪について点検する歩みをしなければなりません。

割礼というしるしは、新約においては心の割礼と言われます。儀式としては洗礼と重なり、生き方としてはキリストの十字架を負って生きることであり、キリストを世に証しする者のしるしです。神の契約は、永遠です。天の御国に入るまで、神の契約は有効です。ペテロは「ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。このようにして、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを、豊かに与えられるのです。( IIペテロ1:10,11)」と語りました。自らの罪を主の前に悔い改めつつ、へりくだって主の約束に基づく祝福を周囲にも分け与える歩みをさせていただこうではありませんか。