「私を見てくださる神」 教会標語⑪

「私を見てくださる神」

2018年12月

教会標語⑪

創世記16章10-16節

牧師 松元 潤

私たちは試練を遠ざけたい、悲しいことに出会いたくない、面倒なことは避けたいと思います。しかし、インドのタゴールが書いた「ベンガルの祈り」という詩の中には、「危険から私を守ってくださいと祈るのではありません。危険の中にあっても、恐れることのないようにと祈るのです。・・・」と、試練を取り除くというより試練の中で信仰を働かせることを願う姿が語られています。もちろん、神の守りや助けを祈ることも信仰でしょう。しかし、それが問題から逃げるための願いになっているとしたら、信仰者の生き方とは言えません。私たちは時には、問題と向き合う力や問題の中で信仰を働かせることができるように祈らなければなりません。神は常に、どんな状態の私たちにも目を向け共におられる方だからです。

ハガルの人生は、苦しみ・理不尽の連続です。ハガルは奴隷として女主人に忠実に従った結果、心を深く傷つけられ、悲しみの中で荒野にひとり立つことになりました。そのハガルに主の使いが語りかけてくださったのです。神はハガルを見ておられました。私たちも、試練の中で途方にくれる時にも神は私たちを見ておられること、そして語りかけてくださることを覚えたいと思います。

 

Ⅰ.第1に、ハガルが「私を見てくださる方」と告白した神は、私たちのすべての悩み・苦しみの一部始終を見ておられ、私たちの声に耳を傾け理解し励ましてくださる方である、ということです。

ハガルは自分の主人夫婦に子どもが生まれない問題を、自分とは関係のないことと捉えていたでしょう。日々、女主人サライの命令に聞き従って生活していました。その忠実さが認められたのか、或る日突然サライはアブラムに向かって「私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう」(2)と、一方的な提案がなされたのでした。世継ぎを得るための当時の社会的習慣であったとしても、ハガルがそれを望んだわけではないのです。しかし、女主人の命令に従った結果、ハガルは簡単に身ごもりました。それにも拘らず、これを命じ提案した当人であるサライの中に予想もしなかった否定的な感情が沸き起こりました。事実なのか、サライがそう感じたのか、ハガルとの関係が逆転したのです。二人の間に、妬みや憤りや優越感が交錯した複雑な緊張関係が生じました。サライはアブラムにハガルを追い出すように願い、アブラムはいとも簡単に「あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい」(6)、と問題から逃げたのでした。ハガルが一方的に見捨てられたのです。

ハガルは逃げ出し、気がつくと自分の出身地であるエジプトに向かう道にいました。ところが意外なことに、神はハガルの苦しみの原因となった場所に戻るように語りかけられたのです。試練の中で、今は苦しみの場所にとどまることが、ハガルに祝福を与える道だと神はお考えになっていました。同時に、主の使いを通して「わたしはあなたの子孫を増し加える。それは、数え切れないほど多くなる」(10)という祝福を約束されました。ハガルは主を「私を見てくださる方」(13)と告白しました。神は私たちのことも全てを見ておられます。私たちの人生の必要にふさわしく居場所を与え、なすべきことを語りかけ、試練の中でも見守り続けてくださるのです。神は、ハガルが身ごもったために被っている今の苦しみの原因そのものを祝福なさる(子孫を増し加える)ことで、ハガルの全存在を肯定してくださったのでした。私たちを見てくださる神は、私たちにも最も必要な時に必要な介入をなさる方なのです。

 

Ⅱ.第2に、ハガルが「私を見てくださる方」と告白した神は、私たちの弱さを知っていてなお。私たちの弱さを支え生かしてくださる方だ、ということです。

祝福の約束の後、主は「その子をイシュマエルと名づけなさい。主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。」(11)とおっしゃいました。ハガルが身ごもった子どもの名付け親に神ご自身がなってくださり、その名の意味も説明してくださいました。イシュマエルの名の意味の中にある「苦しみ」ということばは、「苦しめた」(5)と「身を低くしなさい」(9)と同じことばです。大きな圧力に苦しめられている弱い立場にある人たちの苦しみを現したことばなのです。ハガルはイシュマエルから始まる自分たち一族が増え広がる祝福を約束されました。しかしその中身は、決して順風満帆の約束ではありませんでした。「彼は、野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」(12)として、アブラムの一族にとっても厄介な存在となることが預言されました。イシュマエルは、他の民族と協調して生きることが難しい性質の人間として誕生することになるのでした。

子どもが生まれることが神の御主権によるように、生まれた子がどのような人生を生きるかは親でも介入できない領域です。すべての人間は、罪人としてそれぞれに欠けや弱さを背負っています。その人間が親となり、また弱さをもった人間を育てるのです。そこに罪がもたらす現実の問題が起こるのは当然です。ハガルも、神の祝福の約束と同時に、自分が背負うべき現実も受け入れなければなりませんでした。全てが自分にとって都合の良い約束などありません。それでも、ハガルは主の慰めと祝福と待ち受ける困難を理解して立ち上がります。そして、「あなたはエル・ロイ」すなわち「私を見てくださる神」と呼んだのでした。ハガル自身が母となるまでの過程において、欠けや弱さがあるからといって神は選んだ人間を決して見捨てないことを知っていました。アブラムとサライの罪の現実、そして女主人に対する不遜な思いを持ってしまった自分の罪、それでもなお、それぞれに神が見守り、神が共におられるという事実を体験して今に至っていたからです。イシュマエルは、アブラム86歳の時に誕生しました。神が願ったことではありません。それでも神は、アブラム、サライ、ハガルを愛してご自分の真実を尽くしてくださったのです。

神は私たちにも同じです。神は私たち一人一人を確かに見てくださる方なのです。必要な時には助けを、励ましを、慰めを、叱責をもって「私を見てくださる方」なのです。主のまなざしの中に今日のあなたの発言・振る舞い・思いがあることを覚えて歩みたいと思います。