「結婚の意味」

マタイの福音書5章31-32節、19章3-12節

 この箇所は離縁というデリケートな内容を扱うため、あまり注目されない所かもしれません。ただ、このみことばが聖書から失われるならば、神の定めた結婚の意義が曖昧にならないか…とも思います。世の中で離婚は珍しいものではありません。新聞などの人生相談コラムを読むと、夫婦関係の難しさについてのテーマが出てくると、あるお決まりのパターンがあるように思います。それは「面倒で煩わしい関係は、もうリセットしてしまえばいい」というものです。でも、聖書はいうのです。結婚とは、人間が好き勝手に行う営みではなく、神が定めた神聖な契約なのだと。

 

Ⅰ. 罪を抑制する律法 5:31-32, 19:7-9

 マタイ5:31-32は、「律法学者やパリサイ人にまさる義」(20節)を考える上での3つ目の事柄です。「妻を離縁する者は離縁状を与えよ」という言葉は元々、モーセがイスラエルの人々に語った申命記24章の要約です。イスラエルは男性中心の社会でした。夫は妻よりも強い立場にあり、夫の気持ち一つで、妻は一方的に家を追い出されるかもしれませんでした。その弱い立場にある妻を守る歯止めとして、この律法が与えられたのです。夫が妻を離婚するためには「恥ずべきこと」を見出し、それを証人の前で証明し、公に離縁状を渡さなければなりませんでした。ですから、この律法は軽々しい理由でなされる離婚を大幅に制限するものだったでしょう。

 ですが、主イエスの時代には本来の意図が見失われ、「手続きさえ踏めば自由に離婚していい。それが夫に与えられた特権だ」と考える人々が増えていました。これは夫の側には何とも都合のいいものでしたが、妻の側からすると理不尽な主張でした。夫の機嫌を損ねたら、捨てられてしまう。そんな恐れが、当時の夫婦関係を蝕んでいたので
はないでしょうか。

 現代の風潮もこれと重なる所があるかもしれません。現代は、ほとんど交際と変わらない結婚があります。好きになれば結婚し、問題が起これば「性格が合わなかった」と別れる。そこには神が二人を結び合わせたとか、厳粛で神聖なものという発想はありません。個人の自由を際限なく認める先に、心から信頼できる夫婦関係を築くことが難しくされた現実がないでしょうか。

 当時、どのような理由なら離縁できるかが、詳細に議論されたこともあったようです。ですが、主イエスはそんな議論自体が間違っていると言われます。そんな法律の抜け穴を探すような発想では、結婚に込められた初めの祝福の意図を見失ってしまう。主は罪人の身勝手を責め、それによって傷ついた者に寄り添い、再び立たせる憐れみを備えようとされるのです。

 マタイ19章に、その具体的な場面が記されています。主イエスはパリサイ人からこのテーマについて質問された際、創造時の結婚について語り、離婚は本来みこころではないと言われます。そこで、パリサイ人たちは食い下がって問い詰めます。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか」(7節)。そこで主イエスは答えます。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです」(8節)。罪人は時として非常に頑なになり、離婚に至ることもやむを得ない場合もあると言います。ただ、パリサイ人は7節で「命じた」と言うのに対し、主イエスは8節で「許した」と言います。この違いは重要です。つまり、神はモーセを通して離縁の手続きを定めました。それは軽率な離婚を制限し、妻を守る意図があった。このルールによって救われる妻たちが多くいたでしょう。その意味で、これは罪の影響を抑制する恵みの教えでした。ただ、それでも罪人である以上、どうしても離縁しなければならないケースもあった。その現実も主はご存知で、譲歩の意味で離縁を許容されたのです。

 この問題を考える時には、「しかし、はじめの時からそうだったのではありません」という、神の定めた本来の目的に戻る必要があります。結婚は二人を一体とする神秘的な営みです。だから、結婚するまでの間は相手を選ぶ自由がありますが、一度結婚したならば、その人に誠実を尽くすことが求められます。ただ、ここで主イエスは離婚を認め得る理由として、「淫らな行い」を挙げられます。姦淫の罪を犯せば、新しい結びつきが生じて一体性が崩れるので、裏切られた側には離婚が許され、再婚の自由もあることが示唆されます。でもだからといって、必ず離婚が命じられている訳ではなく「許容」であることを見落としてはなりません。

 

Ⅱ. 主が定めた結婚の意味 19:4-6

 つまるところ、この離婚を巡る問答で明らかにされたのは結婚の重さでした。主イエスは創世記に遡って本来の結婚を語ります(19:4-5)。ここで主イエスは創世記を引用し、性や結婚は主が造られたもので、神が結び合わせるのだといいました。自立して親離れし、ある一人の人と出会い、その伴侶を愛し、一体とされるプロセスを共に歩み始める。これが聖書の言う結婚です。

 「ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」(6節)。本来、結婚において意図された夫婦の姿がここにあります。夫婦関係とは本来、地上の人間関係における最も深い結びつきなのでしょう。

 一方、実際の結婚生活においては、夫婦の一体を妨げる色んな障害があります。自分のエゴによっていさかいが生じたり、すれ違いが重なって心が通い合わなくなることもある。元より別人格の二人です。育った生い立ちも、生活習慣も、性格も違う。だからいつも自然と同じ考えになることはない。うまくいかない理由を数えれば、きりがないでしょう。相手の声に耳を傾け、理解しようとする姿勢がなければ、赦し合い、愛し合う意思を持たなければ、二人の関係は築かれません。キリスト者の結婚は、単に好きだからという理由でなく、信仰の事柄としてなされるものです。たとえ恋愛感情がなくなったとしても、神と夫と妻という三者が織りなす営みが結婚であり、神と伴侶に対する献身という理解があります。また、かつて御前で誓った約束に誠実に生きる姿勢によって、この関係は簡単には切れないのです。

 今はまだ神の国が完成していない現実があり、罪のもたらす悲惨があります。その中には残念ながら、涙ぐましい努力をしても離婚に至るケースもある。それは本人にとって痛みの経験ですが、それ以上に神も痛み、悲しまれている。驚くべきことに、神も離婚のような経験をしたと言われています(エレ3:8)。神は裏切られること、離婚の痛みを知っておられます。それは同じような経験を持つ、多くの人の慰めになるでしょう。だから不当に扱われた側は、離婚という過去を恥じて暮らす必要はありません。罪によって堕落した世界に住む以上、罪の悲惨に耐えられず、破滅してしまうことを防ぐために、神は離婚も許されました。ただ、それはあくまで最後の手段なのです。

 ところで、弟子たちはこうも言いました。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです」(10節)。それに対して、主イエスは言われます。「そのことばは、だれもが受け入れられるわけではありません。ただ、それが許されている人だけができるのです」(11節)。ここに独身というテーマが扱われています。誰もが独身でいるべきとか、皆結婚すべきというのではなく、人それぞれに与えられた賜物があるという。大事なのは、私たちが召された所にふさわしく生きるということです(1コリ7:7)。

 結婚はそれまで他人であった二人を一つに結び合わせる、神の祝福です。置かれた状況は一人ひとり違いますが、それぞれの召しと賜物に応じて、主にある幸いな人生を歩ませていただきたいと願います。