Ⅰ. 良い行いをする際の動機 v1
私たちは人との関わりの中で生活しています。その中で、他人からどのように見られるかを意識するのは自然なことです。ただ、それが行き過ぎる時、その振る舞いは見せかけのものになってしまう。そんな私たちを知ってか、主イエスは「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」(1節)と言われます。いつのまにか人に見せるための行いになっていないか―その動機を主は問われるのです。
一方、5章16節では「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」と言われており、矛盾を感じるかもしれません。ただ、そこでは栄光を誰に帰すかが全く違います。16節は「人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」と続きますが、この箇所では人にほめられることが目的になっています。栄光を受けるべきは天の父なのに、自分がその栄光を奪ってしまう。それは神への愛と信仰を否定するもので、それでは天の父から報いを受けられないといいます。
ただ、「そもそも報いを期待して何かをするのは不純では…?」と思うかもしれません。しかし聖書は、私たちが生きている間にしたことはやがて報われると伝えます(Ⅱコリ5:10)。主イエスを信じる私たちの罪は、十字架の贖いによって赦していただけます。その上で、クリスチャンになった後の生き方を、主は見ておられる。不完全でも、まごころを込めて主のために生きる時、主は喜んで下さいます。
Ⅱ. 偽善を超えるために v2-4
「ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」(2節)。「施し」とは、誰か困っている人を助ける行為です。ただそこで、自分の前でラッパを吹いてはいけないと言われます。何か良いことをする時、誰かに見られて「さすがだ」と思われたい。それが生まれつきの私たちの姿です。
この「偽善者」という言葉は、役者や俳優を表す言葉です。役者は舞台で演じる時、悲しくなくても涙を流したり、笑ったりします。そのように行為としては人を助けるための施しでも、自分が称賛されるための動機なら偽善だといわれます。マタイ23章では、イエス様がパリサイ人と律法学者の偽善を責める場面があります。彼らは信仰深く見られるように、ひと目見てそれらしい格好をします。私たちはパリサイ人と同じ格好はしませんが、同じ心で生きる場面がないでしょうか。「いや、そんなこと言い出したら他人のために何もできないのではないか…」と思うかもしれません。でも主イエスは弟子たちに、「あなたがたはそんな律法学者・パリサイ人の義を超えるのだ」と言われます。
あるいは「いっそ全て人の目に触れない所ですれば解決できる」と考えるかもしれません。ただ、主イエスはこうも言われます。「あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい」(3節)。一人だけの所で善行を行うだけで事は解決しません。なぜなら私たちは、密かな自己満足に浸るからです。慎み深い人なら、人に見せびらかすことはしないでしょう。でも、案外自分の心のメモ帳には、自分がしたことを記録するのです。しかし、主イエスは「自分の善い行いを自分に対しても隠すのだ」と言われるのです。
ただ、「言われていることはわかるけれど、一体そんなこと誰ができるのか…?」と思わないでしょうか。自分からの解放を願いつつ、自分を見つめ続けるならさらに囚われてしまいます。一体、どうすればいいのでしょう。それに対する主イエスの答はこうです。「あなたは自分以外の存在に目を向ける時にのみ、自分から自由にされるのだ」。「あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(4節)。誰か人が見ていなくても、神が見ていて下さる。他人から報われなくても、ちゃんと神は帳簿につけておいて下さるというのです。人に見せるための行いにならないためには、神の前にいつもいることを覚えておくしかありません。「神は私のすべてご存知だ」という理解こそ、膨れ上がった自分から私たちを自由にします。主イエス自身、まさにその模範を残されました。
信仰を心の中だけに限定してはいけません。キリスト者として成長すれば、以前より他人に愛を現す者とされるでしょう。ただその際、主は言われるのです。「人に見せるためにではなく、隠れた所で見ておられる神の御前で生きよ」と。結局、誰の目を意識して生きるのかということです。人ではなく、父なる神の前に生かされている。それを自覚して生活するように、主は私たちに言われます。
ただ、一体誰がこのみことばの前で完璧といえるでしょうか。私たちには良いことを行うことにおいてさえ、十字架による罪の赦しが必要です。そこでまず、十字架の愛という、究極的なあわれみの行為を主から受けていることを思い出すのです。
また、1節の「気をつけなさい」という言葉は現在形です。つまり、私たちは毎日このことに注意すべきなのです。私たちが何かをする時、そこにはいつも偽善者として、俳優のように演じる誘惑と危険があります。だからまず礼拝の度に、神の御前にいる自分を改めて見つめ直すのです。そこで神の愛を見つめて、それに応えて生きる。その先に、神の確かな報いが待っています。
今、自分がしていること、口に出した言葉、心に抱く思い、それらすべてを神が知っておられる。それを本気で信じる所から、私たちの態度や生活に変化が起こっていきます。その時、他人の評価にこだわらなくなり、人の悪口に振り回されることも少なくなっていくでしょう。あなたの心は、今どこに向いているでしょう。来る朝ごとに、礼拝の度に、私たちの心を神の臨在の前に置き直したいと思います。