「われは全能の父なる神を信ず」

マタイ6章25-34節
牧師  中西 健彦
               
私たちは自分の願い通りになることを望みますが、いつもそうなるとは限りません。けれども、聖書は「心配するのをやめなさい」と語ります。その根拠は、私たちの信じるお方が「全能の父なる神」だからです。

Ⅰ. 心配しなくてよい理由 v25-32
山上の説教において、主イエスは弟子たちに言われました。「ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい」(25節)。主イエスはこの心配という事柄について、全能の父なる神を信じることとの関係で語ります。「心配するな」という命令の背後に、父なる神の行き届いた配慮があるという約束があるからです。

主イエスは空の鳥と野の花という身近な例を挙げて、その約束を論証されます。聖書の語る信仰は、単に何かを熱心に信じ込むことではありません。みことばの言わんとする所をよく考え、身近な出来事を観察し、それが自分とどう関わっているのかを思い巡らすことが求められています。鳥は種蒔きも刈り入れも、倉に納めることもしません。それにも関わらず、飢え死にすることなく、餌を見つけてきます。神が自然界に食物を備えておられるからです。また、野の花は動くことができませんが、神はその花が育つのに必要な養分を与え、美しく装って下さいます。主イエスはこれらを教材にして、弟子たちに考えさせます。神が鳥や草花さえ養っておられるなら、それらよりも遥かに価値のあるあなたがたが、放って置かれるはずがないだろう…と。

私たちはしばしば、神がおられることを見失います。問題に目が行き、その原因を除こうと懸命に動き回ります。もちろん問題解決の取り組みは、生きる上で不可欠です。ただ、全てが自分の思い通りにはいかず、しばしば問題と同居することが余儀なくされます。その時、「この難関を自分だけで切り抜けなければいけない。果たしてそれができるだろうか…?」と思い煩うのです。

そのような状態に陥る弟子たちについて、主イエスは「信仰の薄い人たち」(30節)と言われます。主が共におられるのに、問題に心を奪われる。その時、私たちはかつて主を知らなかった頃の考え方に戻ってしまいます。32節で「異邦人」に言及されますが、それはまことの神を知らない人のことでした。全能の父なる神を知らなければ、心配するなといっても無理です。もし一切の出来事が偶然によるとか、あるいは逆に運命によって決まっているとすれば、私たちは恐れに捕らわれるでしょう。その時々に努力や頑張りによって問題を乗り越えようとし、どうにもならないことは運命だと思って諦めるしかない。あるいは、願掛けをして問題の解決を祈るかもしれません。ですが、その人の心を占めるのは、必然的に地上の事柄になります。

しかし、全能の父なる神を信じるクリスチャンは、それと異なる態度を取るのです。全ての事が、神の御手の中にある。みこころならば何事も起こり得るし、現在の状況も神が許されたものだと信じるのです。もちろん、大きな課題のために押し潰されそうになることもあるかもしれません。信じるが故に、悩みが深まることもあります。詩篇には、「主よ、なぜですか…?」という呻きも沢山残されています。しかし、神に最終的な信頼を寄せています。全能の父なる神が、いつも自分を支え、世界を保っておられると信じるからです。

全能の父なる神は、この世界を造って後は放置されたのでなく、今も世界を保ち、一人ひとりに深い関心を寄せておられます。ハイデルベルク信仰問答には、以下の問答が記されています。
問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。
答 全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。

ここで「雨・豊作・健康・富」という好ましい事柄だけでなく、「ひでり・不作・病・貧困」という問題にしか思えないものも、神の深い摂理によって備えられたといわれます。現世利益を求める宗教では、前者だけを求めて、後者には何の価値も見出さないでしょう。しかし、御子イエス・キリストさえ惜しまずに与えた父なる神が、ご自分を信じる者たちに良くして下さるのは確かです。それを知るために、私たちも空の鳥・野の花を見つめ、神の摂理を学びたいと思います。

Ⅱ. 真に心配すべきもの v33-34
信仰者には、むしろ心配することからの方向転換が求められます。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(33節)。「神の国」とは、神の支配のことです。ですから、神の国を求めるとは、まず私たち自身が全能の父なる神様に従うことです。さらに神の義とは、神との正しい関係、みこころにかなった生活をすることです。主イエスによれば、心配しないことと神の国を求めることは、コインの裏表の関係にあります。私たちが神の国とその義を第一にする時に、心配から解放される。逆にその態度を失う時、私たちは心配の虜になります。なぜなら、全能の父なる神の支配を知ることこそ、心配の雲を取り払う鍵だからです。主は私たちを取り巻く状況や、実際の必要をよくご存知です。そして、私たちが神の国とその義を求める時、その必要を満たして下さいます。神の国を第一に求めるならば、そこで私たちの必要は正しい位置に置かれます。悪魔は私たちの心を地上的な事柄に向けさせますが、主イエスはまず神の国とその義を求めるように命じます。真に心配すべきは、神との正しい関係なのだと。ですから、神を心の王座にお招きするのです。

この段落は、このように締めくくられます。「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります」(34節)。神を信じたからといって、何の苦労もなくなる訳ではありません。ただ、その時々に、神が必要な助けを与えて下さるのです。ですから、問題が起こる前からそれを心配する必要はないのです。神が全てをご存知で、時が来ればそれを取り扱って下さいます。将来への不安に駆られる時、神が先のこともずっと見通しておられ、最善へと導かれることを信じることができる。それは無計画で良いということではありません。でも、将来の予測できない領域を、明日を知る方に委ねよと勧められているのです。将来への不安で身動きが取れなくなる私たちに対して、神が明日のことも心にかけてくださるから、一日一日を精一杯生きるように勧めているのです。
 
主イエスはこの御言葉を通して、「全能の父なる神のご支配を信じ、思い煩うのをやめよ」と呼びかけます。ですから、「我は全能の父なる神を信ず」と告白する度に、神の国とその義を第一にする原点に立ち戻るのです。父なる神は、私たちの必要を満たし、時には懲らしめや訓練も含めて恵みを与えて下さいます。心配でたまらない時、心が折れそうな時、神の御手の中に生かされる信仰に立つものでありたいと思います。