「処女マリアより生まれ」

ルカ1章26-38節、マタイ1章18-25節

恵庭のテーマパーク・えこりん村には、「とまとの森」というコーナーがあります。そこには一本の茎から所狭しと葉を伸ばし、数えきれない実をならせた巨大トマトの木が展示されています。初めてそれを見た時、「これは本当にトマトなのか…?」と信じられない思いでした。そこでスタッフに尋ねると、その木は本当にひとつの種からできているといいます。多い時には一つの種から2万個以上の実が取れる解説を聞き、実物を見る中で素直にすごいと思えるようになりました。

さて、今回扱う使徒信条の項目には一つの奇跡が含まれています。ある人は「処女降誕は、昔の人なら信じられたかもしれない。でも現代人が信じるのは無理だ」と言います。私が巨大トマトの木を信じられなかったこと以上に、この条項は多くの人々に「それはない」という前提があるでしょう。ただ、それは当事者であったマリアとヨセフも、最初は同じでした。しかし、彼らは信じられない所から方向転換しました。一体、彼らに何が起こったのでしょう?

Ⅰ. マリアの戸惑いと勇気
後に主イエスの母となるマリアは、ヨセフと婚約していました。神はそのマリアの元に御使いを遣わし、彼は「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」と言いました。マリアは、ひどく戸惑って考え込みました。御使いの語る内容は、いつもの思考を遥かに超えるものであったからです。処女なのに妊娠する?しかも、その子は神の子で、王として永遠に治める…?そんな途方もない言葉を聞き、「どうしてそのようなことが起こるのでしょう」と問いかけます(34節)。マリアは自分の理解を遥かに越えていることをうやむやにしません。「そうですか、わかりました」と最初からすんなり受け入れたのではなく、葛藤を率直に問いかけるのです。

マリアだけではありません。聖書に出てくる信仰者たちは、神の言葉を聞いてしばしば戸惑います。アブラハムは、高齢の妻が子を産むことが信じられませんでした。モーセは、口下手な自分がイスラエルの民を率いるなんて無茶な要求にしか思えません。ヨナは憎き敵国に、宣教師として赴くことが嫌でたまりませんでした。その内容と応答は様々ですが、神の思いはいつも人の思いの遥か上をいくのです。ただ、このような人々の正直な応答が聖書に含まれているのを読む時、どこかホッとする気もします。何か疑問にぶつかった時、ありえないと思える時、神様に正直に問うことも許されている。それも含めて、神を信じるという営みなのです。

神は何も言わずに、マリアを身ごもらせることもできたでしょう。でも天使は、神の力によって不可能が可能になると語ります。マリアは、全能の神が言葉で世界を造られたことを知っていました。しかし、頭ではそう理解できても、それが自分の身に起きることとの間には隔たりがあります。ただ、それを自分自身の出来事として、マリアは受け止め始めます。最後に御使いは言います。「神にとって不可能なことは何もありません」。

初めは、マリアが神に問いかける立場にいました。でもここでは逆に、マリア自身が問われているのです。私たちが聖書に向き合う時、理解しがたい事柄にぶつかります。にわかに信じがたい内容もあれば、私たちの慣れ親しんだ生き方を変えるように挑みかかってくる言葉もあります。その時、私たちは神に「どうしてですか」と問いかけることもできます。ただ、それだけでなく、神からの問いかけに誠実に応えることが必要です。神の救いの御業は、私たちが信じようが信じまいが、すでにこの歴史の中で始められている。それは私たちにとって予想外の、とんでもない話に思われるかもしれません。でも、神の独り子イエスは私たちの経験や知識の枠を越えて、この世界に飛び込んで来て下さった。これが聖書のメッセージです。

マリアにとって、御使いの御告げは最初ありえないように思いました。でも、もしそれが全能の神の力なら、天地を造り、この世界の全てのものにいのちを吹き込む神の力が私に及ぶなら、全くの不可能も可能になる。そう受け止めたのです。「訳がわかりません、そんなとんでもないことは辞退します」と言うこともできました。でも、彼女は自分の考えを絶対化しませんでした。自分には知りえないことがあり、神がそこでも働いておられることを信じることにしたのです。哲学者パスカルは、「信じようとする者には十分な光があり、信じまいとする者には十分な闇が用意されている」という言葉を残しています。信じることを選ぶ人には、それに足りる十分な証拠がある。マリアは100%理解できたから、疑問に全部答えられたから従ったのではありません。ただ、自分よりもはるかに大きな神を信頼することを選び、決断したのです。

最近、あなたは神との関わりにおいて、被告席と裁判官席のどちら側に立っていたでしょうか。私たちが主に従おうとする時、マリアと同じことを言うことになります。「私に全てのことはわかりません。でも、自分の思いにこだわるのではなく、あなたの言われることなら何でもします。どうぞ、おことばどおりこの身になりますように」。神のことばに心を開き、主を信じる先にある恵みを見出したいと思います。

Ⅱ. ヨセフの苦悩と信仰
一方、ヨセフはどうだったでしょうか。マリアの妊娠を知った時、ヨセフもまた混乱し、深い悩みに沈んでいったでしょう。そんなある夜、ヨセフは夢において天使の御告げを聞きました。ここで初めて、彼はマリアの妊娠の理由を知りました。ヨセフの悩みは、実は神の壮大な計画の中にありました。処女降誕というしるしは、人間の努力の延長線上に救いがあるという考えを真っ向から否定します。神が人となり、私たちの罪を身代わりに背負って下さらなければならなかったのです。神が人となる出来事には、しるしも伴いました。ですから、このお方の誕生が普通ではないのは、見方を変えれば当然です。神はマリアを選んで、その胎内にキリストを誕生させたのです。処女がみごもることは信じがたい奇跡ですが、もっと驚くべきは神が人となられた奇跡です。主は、私たちの罪と悲惨の只中に来て下さり、私たちを罪から救い出して下さるのです。

マリアと同じく、ヨセフも神から問われたでしょう。ヨセフの言葉は記されていませんが、彼もまた信じることを選び取りました。変な夢だと片付けず、マリアと結婚し、赤ん坊をイエスと名付けた。ヨセフはこの後、マリアを支え、主イエスが生まれた後も家族を養いました。神の大きなご計画の中で、自分に与えられた役割があることを見出したのです。

私たちが神を信じるという時、自分の気持ちを一番大事と考えるかもしれません。でも、たとえ感情がついてこなくても、自分の意志で信じる方を選び取ることはできます。信仰は、感情でスタートするものではありません。感情は後からついてきて私たちの歩みを豊かにしてくれます。でも、気持ちのレベルで信仰を判断しようとすると、調子が悪くなったら、信仰がなくなってしまうことになる。でも信仰者は、たとえうつ状態の暗い中でも、ギリギリ信仰を持ちながら、神と共にその状況を耐えることができる。マリアとヨセフも自分の気持を優先するのではなく、神のことばに信頼したのです。

その先に待っていたのは大変な人生でした。でも、彼らには「わたしがあなたと共にいる」というインマヌエルの主が共にいました。神に問いかけ、問いかけられる。その神との関わりの中で、自分の役割を見出し、その使命を全うしていったのです。私たちのためにも既に恵みの人生が用意されていて、後は私たちがそれを受け取るかどうかです。自分の考えに合わないからといって退けては、もったいない。「おことばどおり、この身になりますように」という信仰を私たちのものとさせて頂きましょう。