「安息日の主」

マルコの福音書2章23〜28節

 私たちは色々な決め事の中で生きています。ただ、最初は明らかな目的と意図があったとしても、その意味が伝えられずに形だけ残るならば、「なぜこれを守っているんだろう?」という事も起こり得ます。かつての寮生活を思い出すのですが、そこでは学生たちが共同生活するための細かいルールがあり、最初の半年はその規則を覚えるだけで大変でした。中には何のためにあるのか分からないルールもありました。ただ、それを破ることで誰かに迷惑をかけたり、時には危険に晒してしまうとわかってきました。例えば、誰かが厨房のガスの元栓を閉め忘れていたために、小さな爆発が起こったことがありました。そんなことを通して、全てのルールの意図を完全に理解した訳ではないにせよ、それらに意味があることを思わされました。

この箇所でも、ルールに関する論争が起こっています。事の発端は、23節に書かれています。「ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたときのことである。弟子たちは、道を進みながら穂を摘み始めた」。すると、パリサイ人たちが言いました。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」。現代の感覚からすると、他人の畑に入って勝手に食べるなんて…と思うかもしれません。ただ、律法ではそれ自体は許されており、むしろ安息日に働いていることが問題とされたのでした。

それを労働と捉えるなんて…と極端に思うかもしれません。ただ、ユダヤ人の間では、律法を守るためにこのルールがありました。例えば、安息日に関して、してはならないことが39個定められていました。その動機が、最初から全て間違っていた訳でもなかったかもしれません。

 ただ一方で、弟子たちの振る舞いを責め立てる彼ら自身の内に、安息日を喜ぶ心があったのでしょうか。穿った見方をすると、彼らは初めから主イエスの姿を監視していたかもしれません。そうでなくても、ルールを守ろうとするあまり、それから外れた人にすぐ目がいったのではないかと思います。自分の正しさからはみ出ている人を見ると、批判したくなる。そんな他人のあら捜しをする心は私たちにも身近で、うっかりすると私たちも陥る落とし穴です。

 このような律法主義は、罪人の性なのでしょう。遡って創世記3章で、エバは蛇の誘惑を受けました。その時エバは神の言葉を正確に覚えておらず、「食べてはいけない」という主の言葉以外に、「それに触れてもいけない」と付け加えました。律法主義の芽は既にここから芽生えており、昔も今も人間の本質が変わっていないことを思います。

 一方、パリサイ人たちの訴えに対して、主イエスは答えられました。「ダビデと供の者たちが食べ物がなくて空腹になったとき、ダビデが何をしたか、読んだことがないのですか。大祭司エブヤタルのころ、どのようにして、ダビデが神の家に入り、祭司以外の人が食べてはならない臨在のパンを食べて、一緒にいた人たちにも与えたか、読んだことがないのですか」(25節)。主イエスはここで、パリサイ人もよく知る聖書を引用して答えられました。そこではダビデがサウル王から逃れる道すがら、祭司からパンをもらったエピソードが記されています(1サム21章)。この引用によって、主イエスはパリサイ人の狭い律法理解を問い直し、むしろ主イエスは律法を本来の意図に戻そうとされます。そもそも何のために安息日があるのか。それは人のためであって、安息日のために人を造られたのではなかった。パリサイ人たちは安息日の本来の目的を見失い、形だけにこだわっているのだと。

 この安息日の教えが刻まれた第四戒(出20:8)の心は、主が休まれたリズムに合わせて人間にも安息を与えて下さるものでした。さらにそれは本人だけでなく、周りの全ての人々、家畜さえ含めて、主の前で休ませる恵みの教えだったのです。思えば、その十戒を頂く少し前までイスラエルの人々は奴隷であって休むことができませんでした。けれども、そこから主によって解放された。また、申命記によれば、その日は神の救いを記念する日でした。ですから、安息日は単に守らなければならない重荷ではなく、喜びの日だったのです。

 これは私たちにとって、主の日をどう過ごすかにも関わってきます。かつて「聖日厳守」と言われた時代がありました。しかし私たちにとって、主の日の礼拝は歯を食いしばって耐えるような修行のようなものではないでしょう。むしろ、私たちを罪の暗闇から救い出し、日々恵みを与え、真実の愛で愛される主にお会いする喜びの時。また、「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる」と言われるように、私たちを生かすみことばによって養って頂く時なのです。

 ただ一方で、安息日を守る気持ちが薄れ、この日は自分たちのために設けられたのだからと言って、その日をどんな風に過ごしてもいいという訳でもないでしょう。神様から離れた所に楽しみや安らぎを見出そうとしても、本当の意味で魂の安息は得られません。神のかたちに似せて造られた私たちですから、神を礼拝することで、自分の帰るべき所を覚え、どなたによって生かされているかを思い起こすのです。

 主の日の礼拝は、招きから始まります。それは礼拝にあずかることが、神に招かれて初めて成り立つ、いわば神からの贈り物であることを物語っています。出エジプト記を読んでも神の側が民に寄り添い、どのように礼拝したらいいかを教え、ご自身との交わりへと招かれたことが書かれています。その律法を成就するために来られたのが、イエス・キリストでした。ですから、28節で「人の子は安息日にも主です」と言われています。旧約で預言されたメシアを表す「人の子」イエスは神と同じ権威を持ち、「安息日にも」とある通り、安息日もそうでない日もいつも主であるということなのでしょう。安息日の主を覚え、この日を過ごしたいと思います。そうでなければ、私たちはいつの間にか、自分が神であるかのように生きてしまうからです。この世のことに流され、何かの奴隷になりやすい私たちです。けれども、主の愛と恵みに再び目を向け、抱えている課題を取り扱って頂き、本来の立ち位置に立ち戻るのです。

 だからこそ、やはり礼拝を生活の中心に据え直したい。やらなければならない事に追われることもあるでしょう。でも、そんな時だからこそ、主の前に出るのです。自分が今携わっている事も、主の守りと導きの中にあり、その仕事さえ一つの礼拝として主に捧げるために、安息日という神の恵みのリズムを守るのです。この主の日のたびに、自分の向きを変えるのです。日々色んなことに追われる所から、神が全てを恵みの内にご支配下さっていることに信頼し直す。そのために主の日の礼拝を心からささげたい。

 主は、私たちのために安息日を備えられました。この日を通して、私たちは本来の自分自身を取り戻し、主イエスとともに人生を歩んでいることを思い起こすのです。その意味で、安息日は天国の前味です。自分ですべて背負っては疲れ果て、重荷を負う生き方に戻りやすい者ですが、主の日ごとにキリストの内にある安息を得させて頂きたいと願います。