「律法学者やパリサイ人にまさる義」
マタイの福音書51720
 

 「山上の説教」では、キリスト者の性格が様々な角度から明らかにされてきました。今回の箇所では、主の弟子は「律法学者やパリサイ人の義にまさる者」だと言われています。

 

Ⅰ. 旧約聖書とキリスト

 主イエスは、当時の人々の間で驚くほど自由に振る舞いました。宗教指導者から見ると、イエスは神の律法に挑戦する危険人物に映ったでしょう。ただ、主イエスは律法をないがしろにするつもりは決してありませんでした。「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(17節)

 それでは、主イエスは旧約聖書をどう考えておられたのでしょうか。エマオの途上で、復活されたイエス様は弟子たちに、ご自分について旧約聖書から解き明かされました。また、主イエスは律法に違反せず、本当の意味で律法を正しく実践しておられた。ですから、主イエスの教えと旧約聖書は完全に調和するものでした。

 さらに主イエスは言います。「まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します」(18節)。ヘブル語で書かれた旧約聖書の一点一画さえ、決して消え去らず、天地が消え去るまで残るといいます。現代では「真理は人それぞれ」という風潮があります。でも、それでは確かな指針がなく、どう生きればいいかわかりません。神様は人の生きる道を教えるために、律法を贈り物として与えられたのです。

 また、19節にはこうあります。「ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます」。「今は新約の時代に生きているから、旧約聖書は読まなくていい」と私たちが言ったとすれば、主イエスは「とんでもない」と言われるでしょう。もちろん

 今は、動物のいけにえを屠ったりはしません。キリストは十字架上で完全な罪の贖いを成し遂げて下さったからです。旧約時代だけに適用される戒めもあります。でも、その律法の底流に流れているものを学ぶことで、神のみこころを学ぶことができます。また十戒のように、新約においても大事にされる教えもあります。

 また、アダムが罪を犯してから、人類に罪が入り込み、律法の要求を満たすことは私たちにはできなくなっていました。ですが、主イエスは罪を犯さずに、父なる神のみこころを完全に実行し、私たちの代わりに律法を完全に守られました。その上、律法が罪人に求める刑罰と死を身代わりに引き受けられた。その意味で、まさに主イエスの生涯と十字架は、旧約聖書の成就でした。

 旧約聖書は、来るべきキリストを指し示す神の言葉です。主イエスをさらに知り、成就された救いの御業を理解するために旧約にさらに親しみたいものです。一方で、律法と預言者が成就され、ただ信じるだけで恵みとしての救いを受けられるようになった幸いを、感謝して受け止めたいと思います。

 

Ⅱ. 律法学者やパリサイ人にまさる義

 その上で、20節ではこう言われます。「わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」。その場でこの言葉を聞いた人たちは驚いたでしょう。あの律法学者・パリサイ人以上でないと天の御国に入れないなんて、そんなの無理ではないか…と。彼らは、いつもどうしたら神の前に正しくいられるかをとことん考え、律法を学び、実践しようとしていたからです。ただ、そのような人間的な努力で律法を完璧に守ることができるのでしょうか。

 「パリサイ人にまさる義」についてわかりやすく語るのが、ルカ18:9-14の主イエスの譬えです。ここでパリサイ人は、神の前に自分の正しさを数え上げて祈っています。「神よ。私がほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でないこと、あるいは、この取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分が得ているすべてのものから、十分の一を献げております」と。一方、取税人は遠く離れて立ち、「神様、罪人の私をあわれんでください」と言うことしかできません。ところが、神が義と認めたのは取税人で、パリサイ人ではありませんでした。

 パリサイ人は、外見上は非の打ち所がありませんでしたが、自己満足とプライドに凝り固まっていました。本来、律法は私たちの心も問うています。一方、パリサイ人は形さえ守ればそれでよしとしていた。自分は正しい生活をしていると自負していますから悔い改めません。だから、かえって神から遠いのです。この姿は私たちにとっても無縁ではありません。自らの正しさを絶対化し、他人をさばく時、パリサイ人のようになる。でも、その正しさでは天の御国に入れないのです。取税人は決して正しくありませんが、心貧しく、義に飢え渇き、罪を悔いて、神の前にへりくだっていました。これがパリサイ人の義にまさる義です。

 神の御前で罪を悔い改める時、神はキリストの贖いによって罪を赦し、義と認めて下さいます。その人は罪に敏感になりますが、それが十字架で既に赦されていることを知っているので、さらに深く心を探り、主にきよめて頂くことができます。

 キリストは旧約聖書を成就し、私たちを贖い、まことの義を私たちに与えて下さいます。私たちには、律法学者やパリサイ人のような生き方は求められていません。むしろ主の前にへりくだり、主が私たちを贖うために与えて下さった恵みを受け取りたいと思います。そうして、神に愛されていることを知り、主の愛の内に憩う中で、私も主の愛に応えていきたいという願いが湧き上がってくる。そうして、聖霊なる神の助けを得ながら、結果的に律法をただ形式的に守る以上のことができるようになるのです。

 キリストの義を頂いた私たちは、主人の罰をこわがる奴隷的な恐れからではなく、神の子として、神と人とを愛するようにと招かれています。気づかぬ内にパリサイ人のようになることもありますが、主に気づかせて頂く度に向きを変え、恵みの内に生かされたいと思います。