「正しすぎてはならない」(伝7:16)という聖書の言葉があります。誠実に生きたいと願うならば、正しさを求めるのは自然なことでしょう。ただ、自分の正しさにこだわり過ぎる時、私たちは物事を見る目が歪みます。今も世界で争いが起こっていますが、それらは自分たちの正義の主張を押し通した先にもたらされたものが多いようにも思います。神に背いた人間が最初にした事は、責任転嫁と自分の正義の主張でした(創3:12)。自分は正しく、悪いのはいつも誰か。この罪人の性質は、今も昔も変わりません。私たちには自分の正しさの内にこもる性質がありますが、人間の正義は完全でなく独りよがりになることもある。だから、神の目に叶うことを求めるのとともに、「自分の正義は絶対ではない」というわきまえも必要でしょう。ある意味で、信仰を持つことは自分が神のように生きていた所から、自らの罪を認めて、神を神とする方向に向き直ることです。その先に、神の義を求めつつも謙遜に歩む道が開かれ、自分の正しさにこだわり過ぎる所から自由にされるのではないでしょうか。
さて、マルコの福音書1-2章では、ガリラヤ伝道の様子が描かれていました。主イエスの名が知られ多くの人が集まる一方、主イエスを快く思わない人々も出てきます。最初は心の中でつぶやくだけだった人々の批判はエスカレートし、3章6節では殺意に変わっていきます。それは主イエスの生き様が人々の正しさと衝突したからでした。
Ⅰ. 謀略を知りつつ挑戦する主 v1-4
ある日、主イエスが礼拝を守るために会堂に入ると、そこに片手の萎えた人がいました。主イエスの癒やしについてはよく知られていたので、自ずと注目が集まります。また、ここでは安息日に病人を癒す
のかが問題となりました。会堂の一角に、主イエスとその病人がいます。そこに皆の目が釘付けになる。しかも、それは単なる関心以上に、冷たい敵意の眼差しが含まれていました。イエスは自分たちの伝統を無視してきたが、ここでもまた安息日の掟を破るだろうか。もしそうなら今度こそ訴える口実を得る絶好の機会だ。礼拝をささげるために会堂に集まったはずが、まるで獲物を狩るように見張っていた。そこに病人への憐れみはなく、彼は単なる道具でした。そのように彼らを駆り立てたのは、やはり自分たちの正しさへのこだわりでした。
この状況に、主イエスはあえて真正面から応えました。「真ん中に立ちなさい」と片手の萎えた人に言われます(3節)。主イエスは空気を読んでみわざを控えず、むしろ大胆に挑戦することで、人々の凝り固まった考えを突き崩そうとされました。さらに人々に問いかけます。「安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも殺すことですか」(4節)。主イエスは律法を無視するのではなく、むしろその本来の意図を問いかけるのです。それに対して、常識からすればもちろん善を行い、命を救うのが正しいと答えられたでしょう。でも、人々は口を閉ざしたままです。それは単純に答がわからなかったからでなく、主イエスに対して否定的な、悪意のこもった沈黙でした。主イエスに対して素直になれず、語られる言葉に応答できないのです。
Ⅱ. 頑なな心を嘆く主 v5-6
それに対して、主イエスは怒って彼らを見回しました。主がここで怒り、悩まれたのは、人々の頑なさでした。苦しむ人への関心はそっちのけで、主イエスを訴えたい思いに囚われ、安息日の本来の意味を忘れてしまっている。神の掟に込められたみこころを、柔らかく感じ取る心を失っていた。「自分は絶対正しい」と正義を振りかざす時、私たちは盲目になり、主の恵みと権威を受け入れるスペースがなくなります。この「頑なさ」という言葉は他の箇所で、空しい心や、神のいのちから離れてしまった状態と関連して出てきます。つまり、この頑なさとは、主のみわざに心を開かず、理解しようとしない心、主との交わりを失った状態です。主イエスはそんな彼らをぐるりと見回して、その視線によっても訴えました。なぜあなたがたは、そんなに頑なになってしまったのか。主イエスはそのことを本当に深く悲しみ、そこで重ねられる不義に怒りを覚えておられた。
C.S.ルイスはある本の中でこのように記しました。「世界が始まって以来、全ての国や家庭を襲った悲惨の主な原因はプライドである。世界中の人間は誰一人、これを無関係だと言って免れることはできない。また、私たちが傲慢であるうちは、決して本当の意味で神を知ることができない。だが、明らかにプライドで蝕まれている人々が『自分は神を信じている』と言うのは、一体どういう訳か。私は思うのだが、その人たちは自分の頭ででっち上げた神を拝んでいるのだ。彼らは、自分の思い描いた神の前では無に等しいことを、理屈では認めている。だが腹の中では、『神は私の生き方を祝福し、私が普通の人たちより遥かに立派だと認めている』といつも考えているのだ」。ちょうどここで、主イエスを訴えるために見張る人々がそれでした。主はそんな彼らを、怒りと悲しみとともに見つめられた。
一方、その主の怒りと悲しみの背後には、激しいまでの愛が表されています。愛の反対は無関心だと言われますが、主はこの頑なな人々が神のいのちから離れている状態を歯がゆく思われたのでしょう。そして、その病人に対して「手を伸ばしなさい」と言い、彼がそうすると手は元どおりになった。ここで愛に生きようとしたのは、主イエスだけでした。片手の萎えた人も、主イエスの言葉に信頼し、それに応答したのでした。物々しい場面ですが、この人にとってはこれが救いの日となります。彼は動くようになった手を思う度に、主イエスを思い起こしたでしょう。
Ⅲ. 「正しさ」の吟味
ただ、この癒やしのわざが、主イエスの行く末に暗い影を落とすことになりました。パリサイ人とヘロデ党は元々、考え方が全く違う人々でしたが、ここで共通の敵を見つけてつながりました。主のみわざはすべての人に等しく恵みと喜びをもたらすのではありません。ある人には救いですが、ある人はそれを受け取らない。むしろ、いのちを救う安息日の主を、殺す道へと進んでいきました。2節の「訴える」という言葉が次に出てくるのは、15章の十字架の場面です。ですから、何が主イエスを十字架につけたのかを考える時、それは人々の頑なさ、自分の正しさにこもる態度でした。
主イエスは、私たちの心をどのようにご覧になっているでしょうか。もちろん、ある程度「自分は正しい」と思っていないと生きていけない私たちです。いつも中庸がいいとか、妥協ばかりが良いという話ではないでしょう。その一方で、自分の正しさへの過信、「正しすぎる」ことについては顧みる必要があるのでしょう。自分の正しさの根拠はどこから来ているのか。それは主の願いなのか、それとも自分のプライドやこだわりなのかを吟味するのです。
ここに描かれる人々の姿は、私たちの姿でもあります。自分の正しさに固執し、自分の心に合うもの以外は受け入れない。そうして、主イエスを自分の心から外に追い出してしまう。それこそ、私たちの根にある罪の問題でしょう。だからこそ、改めて主の前で自らを吟味し、憐れみを乞うものでありたい。自分の正しさの枠の中にこもり、神の恵みを受け取る手が萎えてしまった私たちですが、主はその私たちを罪から救い出すために来られました。そして、ここで病人が主の招きに従った先に癒やされたように、私たちをも癒そうとされるのです。主との交わりの内に、自らの頑なさを取り扱って頂いて、しなやかに生きる歩みへと導かれたいと思います。自らの正しさから外に出て、柔らかな心で主の恵みを受け入れるのです。