マルコの福音書1章29〜39節
主イエス一行は、驚きに包まれた礼拝を後に会堂を出ていきました。弟子たちは、次はどこに行くのかと思ったでしょう。すると意外にも、その行き先はシモンとアンデレの家でした(29節)。二人は網を捨て、家族を残して従ったばかりです。主の弟子になるには、持っているものは何であれ一旦手放すという厳しい一面が含まれます。彼らは覚悟を持って従ったのでしょう。けれども、一旦捨てたはずの家族の元に、主イエスは向かわれるのです。
ちょうどその時、シモンの姑が熱を出して寝込んでいました。すると主イエスは彼女に近寄り、手を取って起こされたといいます。驚きの礼拝に引き続き、自分の家で主イエスが自分の家族を癒やして下さる。それはペテロにとって嬉しい驚きだったでしょう。主の弟子になる時、初めは一人で従わなければなりません。クリスチャンになることを家族に伝える時には緊張感を覚えますし、時に反対されることもあります。でも、それでも主イエスについていく先に、その自分が恵みを家に運ぶ存在とされます。主イエスは、私たちの家族も顧みて下さいます。主イエスは私たちの家族の手を取り、その一人ひとりも共に主に仕える道さえ開いて下さいます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使16:31)と語られた人々は、一家そろってクリスチャンになりました。
ただ、それほど簡単にうまくいく場合は少なくありません。家族に対する伝道はしばしば困難と言われます。いつも顔を合わせていながら、どうすればわかってもらえるだろうかという呻きのような声を耳にします。でも、私たちがそれでも後に従いたいと願う主イエスが、私たちの家に顔を向けて下さることは確かです。だから、あなたは家に帰る時、そこに主イエスも先立って下さる。あなたが主の弟子となったならば、あなたはもはや一人ではありません。シモンの姑の手を取って下さったように、私たちの家族の手も取って下さる。主イエスは私たちの家族も救おうとなさるのです。
教会を見渡す時に、家族ごと救われた人たちの存在に気付かされます。最初は自分一人で信じようと思いました。ただ、いつからかその家族も教会に来るようになり、沢山の祈りが積まれる中、主イエスと出会っていく。それは確かに奇跡ですが、実際に起こり得ることです。主イエスの眼差しの内に、私たちの家族が入っている。そのことを思いつつ、自分の家族を見つめ直す時に、また違った見方ができるのではないでしょうか。
そうして、主イエス一行はシモンの家で一時くつろがれましたが、日が落ちると家の周りが急に騒々しくなってきました。安息日が明け、人々が一斉に押し寄せてきたのです。主イエスはこの多種多様な課題を抱える人たちを、一人ひとり癒やされました。人々に囲まれ、ひっきりなしに問題を抱えた人々と関わった夜でしたが、その後に目を引くのは次の節です。「さて、イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて寂しいところに出かけて行き、そこで祈っておられた」(35節)。主イエスは体の疲れを覚えつつも、朝早く誰もいない所で祈っておられました。ここに主の働きの原動力が、何よりも祈りであったことを垣間見させられます。多忙を極める中、主イエスは父なる神との親しい交わりから新たな力を頂き、見つめるべきものに目を留められました。
忙しさに駆り立てられると、しばしば目の前のことしか見えなくなります。そこで祈る時を削る誘惑もあります。でも、主イエスはどれだけ忙しくても、祈りの時を大切にされました。最近の私たちはどうでしょうか。自分のライフスタイルに合わせつつも、祈りの時間を確保したいと思います。
祈りは、私たちの働きの原動力であるとともに、何をすべきで、何をなすべきでないかの優先順位をも教えてくれます。主イエスが一人で祈っていると、弟子たちが追って来て、「皆があなたを捜しています」と言います。実は、ここで使われる「後を追う」という言葉は、何か獲物を狩るといった狩猟でも使われる言葉で、「しつこく追い回す」という意味があります。ここでペテロたちは、主イエスの祈りを邪魔する形で登場します。
彼らの目には、昨夜までの出来事は、自分たちの先生が一躍売れっ子になる絶好のチャンスと映ったのでしょう。この「皆があなたを捜しています」という訴えの裏には、ある種の要求も混じっていたのでしょう。「先生、何でこんな所にいるんですか。ほら、皆あなたを待っています。ここに大きなチャンスがあるのがわからないのですか」。けれども、主イエスの思いは別の所にありました。ペテロなりに主イエスを思ってのことだったでしょうが、それはあくまで人々の求めに乗せられたものでした。もちろん問題を抱えてご自分の元に集う人々を主は憐れみ、手を差し伸べました。ただ、人々はそこである勘違いをしてしまう。それは主イエスを自分たちにとって都合の良い救い主にする企てでした。
あるテレビ番組で、有名な医師にかかった患者が「先生は神様だ」と言っていました。確かに、望みを失いかけていた所、優れた医療行為によって命を救われる。それは本当にありがたいことだと思います。でもそこには、自分に良くしてくれるものは何でも神様になり、逆に自分の願いを叶えてくれないならば切り捨てる構図がないでしょうか。もしそうならば、結局は自分に都合よく奉仕してくれる、しもべとしての神を求めていることにならないでしょうか。イエス・キリストは私たちの主です。ペテロたちはここで既に、主イエスの背中を見失いかけていました。
主イエスはここで、人々の求めから自由でした。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから」(38節)。目先の人気に目が眩まず、忙しさによって流されることなく、ご自分の使命を見誤らなかった。主は断るべきものは断り、自由に境界線を引かれました。あくまで父なる神のみこころに忠実であろうとし、人々の中で都合の良いメシアとして見られないように注意された。このように主イエスが流されなかったのは、祈りの内に父なる神との交わりを持っていたからでしょう。
主イエスは私たちの思いを越えて自由に働き、みこころをなされるお方です。主は弟子たちにとって時に予想外のこともなさりつつ、物事全てを最善へと導いて下さいます。せわしなく、あるいは漫然と過ぎる日々の中で、祈りの時を持ち、見るべきものを見、なすべきことに打ち込むものとさせて頂きたいと願います。