「新しいぶどう酒は、 新しい皮袋に」

マルコの福音書2章18〜22節

クリスチャン作家のC.S.ルイスは、キリスト教信仰を持つことをこのように喩えました。「われらの主は歯医者のようなものである。人々は自分で恥ずかしいと思う罪や、日常生活を損なう問題だけを治してもらおうとキリストの元に行く。彼は確かにそれを治してくれるだろうが、それだけでは済まない。主はこう言う。『勘違いしてはいけない。もしわたしに任せるなら、わたしはあなたを完全な者にしてあげよう。いやならわたしを押しのけることもできる。だが、受け入れたならば、わたしはこの仕事を徹底的にやる』と」。
主イエスは「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」(マルコ8:34)と言われました。十字架ですから負うのは大変です。一方、主イエスは「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)とも言われました。一見矛盾するように思うかもしれませんが、どちらも真実な言葉です。私たちは折に触れて、主に従うか、自分を優先するかの岐路に立たされます。そこで自分の生まれつきの性格を越えて、みことばに信頼して一歩踏み出すかが問われています。そこで一部だけ委ねる姿勢と、自分をまるごと委ねる姿勢では全く違うでしょう。悩み葛藤しながらも、自分の意思で主に従うことを選ぶ。それは古い自分から外に出て、主とともに生きる楽しさを知るチャンスです。

Ⅰ. 断食をめぐる問い v18-20
この箇所で出てくるヨハネの弟子たちやパリサイ人たちは、普段から断食をしていました。かたや主イエスの弟子たちにそんな素振りはなく、むしろ楽しげに飲み食いしていました。厳格な人々からすれば型破りに思われたのでしょう。「それでもあなたは教師か?ゆるすぎやしないか?」と眉を潜める人々の問いかけがなされます(18節)。

これに対して、主イエスは答えられます。「花婿に付き添う友人たちは、花婿が一緒にいる間、断食できるでしょうか。花婿が一緒にいる間は、断食できないのです。しかし、彼らから花婿が取り去られる日が来ます。その日には断食をします」(19節)。「花婿」は主イエスを、「友人たち」は弟子たちを指します。ここで主イエスは断食自体を否定しませんが、断食とは一体何のためかと逆に問いかけます。ここで主イエスは人々が思いつきもしなかったことを主張します。今は婚礼の時、結婚の宴になぞらえられるのだと。主イエスと弟子たちの交わりは、まるで結婚の宴のような、神の国の喜びを特徴としていました。

一方、批判する人々は、断食こそ信仰の証という考えに囚われていました。もちろん目的にかなう断食なら意味があります。でも、彼らは形にこだわっていた。確かに、キリスト者として歩む中で、時に苦しい所を通されることもあります。自分の十字架を負う時、しんどく感じる時もあるでしょう。でも、同時に恵みもある。その主とともに歩む生き方が窮屈にしか感じられないなら、何かがおかしくなっています。教会に行くのがしんどいという人の話を聞いたことがあります。それは「教会ではいつも良い人を演じなければならない」と、その人が感じていたからでした。でも本来、主と共に生きることは、もっと人間らしい生き方です。キリストを信じる信仰は、ただ人間を一つの型にはめるものではなく、むしろその人の内なる人間性を開花させ、贖われた本来の姿に回復させるものでしょう。

Ⅱ. キリストにある新しさ v21-22
他にも、主イエスは2つの喩えを語りました。「だれも、真新しい布切れで古い衣に継ぎを当てたりはしません。そんなことをすれば、継ぎ切れが衣を、新しいものが古いものを引き裂き、破れはもっとひどくなります。まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになります」(21-22節)。当時は服を長く着回していたようで、多少破れても継ぎ布をあてて使っていました。ただ破れを繕う際には、既に繊維が伸び切った古い衣に新しい布を縫い合わせるのは禁物でした。新しい布は水で洗うと縮むため、そんなことをするとさらに破れが広がってしまうからでした。また当時、ぶどう酒を作る際には、ぶどう汁を皮袋に入れて発酵させました。新しいぶどう酒は膨らむため、皮袋が古ければ破れてしまいます。だから、新しいぶどう酒は、強くて丈夫な「新しい皮袋」に入れなければなりません。これらに共通するのは、新しいものと古いものを混ぜる愚かさです。

この喩えでいう「新しい布切れ」「新しいぶどう酒」は主イエスを、衣や皮袋はそれを受ける人間を指しています。古い衣・皮袋とは形式的なユダヤ教の生き方で、そこに主イエス・キリストを入れるのは無茶な話でした。古い自分のまま、キリストを受け入れることはできない。私たち自身がキリストにふさわしい入れ物になって、主の語る言葉、また私たちになさる取り扱いを受け入れることが求められていました。

なかなか主の言葉を聞いても自分を変えようとしない所に、私たちが新しい皮袋になりきれない原因があります。慣れ親しんだスタイルを変えず、良い所だけつまみ食いするような自己流の信仰。それこそ、古い皮袋が表す生き方でしょう。そうではなく、私たち自身が新しい皮袋のような心になることが求められているのです。自らを完全に明け渡した時に開かれる自由な世界があります。

キリスト教信仰は生き方の参考程度のものではありません。主イエスは私たちを、まるごと求めておられます。だから主イエスの上に自分の全体重をかけるのです。中途半端に信じるより、もう腹を決めて、このお方こそ主なのだと信じて従うスタンスを決める。何かあるごとに、これに関しては従おうか、やめとこうかと迷って、キリスト者とそうでない顔を使い分け、ツギハギのような生き方をしていては、信仰に生きる喜びが半減してしまいます。何をするにも、主を第一にする構えを決めておくことで、逆に生き方が楽になります。

もちろん、あるテーマに関して従いたくなかったり、悩み葛藤することもあります。でも、普段から「何でもホドホドに」という煮えきらない態度なら、塩気を失った塩のように、自分は結局何を信じているのか…ということにならないでしょうか。自分の心の傷が痛むときには、絆創膏のようにみことばを取り出して、それをぺたっと貼る。もう忘れてきて良くなったと思えば、それをはがして捨ててしまう。そのように主イエスを出し入れし、都合よく利用する。でも、それでは花婿を迎える喜びを十分に知ることはできません。

自分の歩みを振り返っても、キリスト者として生きる事が本当に面白くなってきたのは、自分と主との関係の中で何かを主体的に選び、小さな一歩ずつでも応答し始めてからでした。自分と神様との関係で、今何が望まれているのかを考え、たとえそれが楽な道でなかったとしても、恐れに委ねて、主と共に冒険する。そこで初めて、神が今も生きて働いておられることを知るのです。

私たちの前には、花婿なるキリストを迎えた喜び、その交わりに生かされる自由が用意されています。それを十分に味わうために、つまみ食いのように信じるのではなく、このお方を丸ごと受け入れたい。古い自分にこだわるのではなく、新しい皮袋とされて歩みたい。その先に、みことばが約束する神の国の喜びにあずかる歩みが待っているのです。