驚きの礼拝

マルコの福音書12128

主イエスはガリラヤ宣教にあたり、安息日に会堂で教え始められました。そこには汚れた霊につかれた人がいて、このように言われました。「ナザレの人イエスよ、私たちと何の関係があるのですか。私たちを滅ぼしに来たのですか」(24節)。私たちはこのような箇所を読む時、どこか距離をおいて読もうとするかもしれません。しかし聖書は、暗闇の力を持つサタンや悪魔についても記します。パウロも偶像礼拝の背後に、悪しき霊の存在があると伝えます。この国では霊的な世界への関心は至る所にあります。ほとんどが無宗教だと答える日本人ですが、スピリチュアルなものに惹かれたり、厄年には災いを恐れ、不幸が続けば「先祖の祟りだ」とうろたえます。目に見えない世界の恐れにつけこんで活動する新興宗教は、昨今、社会問題にもなっています。あるいは、それらを信じなかったとしても、お金や権力に捕らわれることがあります。宗教なんてもう時代遅れだと思っている人ほど、宗教と名乗らない何かに、たやすく引っかかってしまうこともあるわけです。

サタンは巧妙に私たちを惑わし、神から引き離そうとします。実際に占いが当たるとか、奇跡が起こるのも、それだから正しいというよりも、悪魔もある種の力を持っているということでしょう。悪魔の目的は、私たちを神様に向かわせないことですから、そのためならば何だってします。もちろん神の許される範囲においてですが、「何でこんなタイミングでこれが起こるのか?」というようなこともあります。十字架の前で弟子たちがサタンの篩にかけられたように、私たちも試みられることがあるのです。

このような悪魔・悪霊を恐れる必要はありませんが、全く無頓着であってもいけません。暗闇の力は今も確かに働いています。もちろん自分の犯す罪を全て悪魔のせいにする訳にはいきませんし、それこそ悪魔の策略です。ただ一方で、私たちが何か罪に陥る時、それは全く純粋に自ら出たというより、悪魔の誘惑によってもたらされた面もないでしょうか。あのヒトラーにしても、その悪が徹頭徹尾、全面的にその人自身から来たとはいえない所もあります。様々な悲惨な事件を知らされる時にも、その人自身の考えたこと以上に、何かに取り憑かれているようにしか思えない暗闇の力を思います。悪魔は人の考えを捻じ曲げ、人間性を破壊し、悪を行わせる力として働いている。

それは様々なレベルで表れます。今日起こるあらゆる悪や罪の中に、暗闇の力が働いていることを見逃してはなりません。ペテロも後に手紙で記します。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(Ⅰペテロ5:8)。この暗闇の力は私たちが思う以上に身近で働いている。だから「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい」と言うのです。遠い昔、蛇が人間を誘惑したように、今も人間の外から誘惑を仕掛けてくる者がいます。ただ、その悪魔に対して陥ってはならない2つの態度があります。一つは悪魔の存在を全く無視する姿勢です。それは悪魔の攻撃に無防備すぎます。一方、悪魔的なものに強い関心を寄せ過ぎてもいけません。何でもかんでも悪魔のせいにする時、私たちの目は主イエスからそらされてしまうからです。だからこそ、キリストの方が悪魔よりも圧倒的に強いことを忘れてはならないでしょう。ここでも「私たちを滅ぼしに来たのですか」と言うほど、悪霊は主イエスを恐れています。

またここで、汚れた霊につかれた人が叫んだ言葉に、特に注目したいと思います。それは「私たちと何の関係があるのですか」という言葉です。「私たちに構うな、放っておいてくれ。こっちに来るな、私の所でとやかく言わないでほしい」。そのような意志の表れですが、これはふとすると私たちの心の中でも思い浮かぶことがないでしょうか。主イエスを信じていながら、「このテーマは主イエスに触れてほしくない」と密かに隠し持つ生活の領域はないでしょうか。でも一方で、本当に解決したい問題はそこに潜んでいることもしばしばあることでしょう。

けれども、主イエスはそんな霊に向かって叱りつけます。「黙れ。この人から出て行け」。その主イエスの権威の前に、悪霊は従うほかありません。神の国の到来は、サタンの王国にとって滅びを意味します。私たちが悪魔やお化けを怖がらなくていい理由は、それよりも遥かに強い主イエスが共にいて下さるからです。そうして私たちが言い訳をし、変えられたくない所にも主は踏み入ってこられる。それは私たちを悪の力から救い出すためです。私たちの内に、いまだに悪魔の影響下にある領域があるかもしれません。悪魔は私たちが悪習慣を行う所に、足場を見つけます。けれども、主イエスはそこにも立ち入り、悪魔に対して「黙れ、この人から出ていけ」と言われるのです。

主イエスは、やめられない罪に陥る私たち自身を否定するのではありません。むしろ私たちを暗闇の支配から救い出すために、悪へと誘う者を叱り、追い出そうとされるのです。それは私たちを真の自由と幸いの内に生かすためです。人は、自分でどうにもならない力に対して不安になります。だからお守りを買うのでしょう。でも、そんなお守りよりも遥かに確かな方が、ここにいます。悪魔・悪霊よりも遥かに強い、主イエス・キリストです。主イエスは、私たちを悪へと誘う暗闇の力に対して、そこから自由にする権威を持っておられます。悪魔に警戒しながら、その力を恐れ過ぎずに、神の国の王である主イエスに従っていきたいと思います。私たちはもう、たたりや呪いと言った、霊の世界を恐れる必要はありません。人生の行く先々に、主が伴って下さるからです。「主イエスこそ、まことの勝利者だ」と驚きつつ、神のみ前での本来の自分を取り戻すものとされたいと願います。