マタイの福音書5章14〜16節
約7年前、私は東京の神学校を卒業して札幌に来ました。その引越前後には小さな思い出があります。苦労しつつ荷造りしてそれらを送った後、照明も引越業者が持っていってしまいました。夜になると真っ暗で、電灯の一つでも置いていけばよかったと後悔しました。光はスマホのライトしかなく、荷物を踏んだり、壁にぶつかったりしました。光がないと、こんなに不便なのかと思いました。
明くる日、それを後輩に話すとキャンプ用のランタンを貸してくれました。それはスマホのライトより遥かに明るく、暗いながらも段違いに見えるようになりました。普段は「あって当然」と考えていた光ですが、暗闇を追い払えるのは光だけで、それはものを見えるようにし、元気をくれる尊いものだと実感しました。
Ⅰ. 世界の光とされたキリスト者 v14-15
今日開かれた箇所では「光」について語られます。主イエスはご自分の弟子たちを「塩と光」に喩えられました。原文では13, 14節の「あなたがた」という言葉が強調されています。つまり、「あなたがたこそ地の塩だ。あなたがただけが世の光だ」と言われている。先週は地の塩について学びましたが、キリスト者はこの世から取り分けられ、ユニークな存在とされています。「塩」が地の腐敗を遅らせ、恵みの味付けをする特別な存在だったように、「光」も暗闇と根本的に違います。
この世の暗さについては、使徒パウロもこう記しています。「彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その鈍い心は暗くなったのです」(ロマ1:21)。つまり、神を退けた罪こそが人の心を暗くし、モノを見えなくしているというのです。
聖書はこの世界を楽観視しません。現代社会でも、技術の進歩によって知識は増大し、情報は洪水のように溢れています。何か知りたいことがあれば、インターネットで検索すれば何かの答は出てくる。けれども、人間はそんな知識を統合し、どのように生かし、何のために用いるべきか、それをふさわしく働かせるすべを知らずにいます。暗闇の特徴は「見えないこと」です。創造主を知らなければ、私たちは人生の目的とか、自分の存在意義がわかりません。
そんな世界を、神はそのひとり子をお与えになるほど愛されました。そして主イエスは世の光として来られ、その光を照り返す人々の群れを造られました。それが世の光とされた弟子たちの群れです。もっと立派な生き方が身についたら、光の立場になるのではない。主を信じるあなたはもう既に世の光だという。
ただ普段、私たちは自分を「光」と考えるでしょうか。おこがましい、と感じるかもしれません。輝いているのは、エースとかスターと呼ばれるような人たちで、自分などはそんなのではないと思ったりします。ですが、主が言われる「光」の定義を考えると、あの12弟子にしても凸凹な人たちでした。でも、主の選びの中で「わたしについてきなさい」という召しに応えた先に、彼らは光とされていったのです。
主イエスはその弟子たちを、山の上にある町に喩えました。それらは目立つので、確かに隠れることができません。それにも関わらず、15節では「明かりをともして升の下に置いたりはしません」と言われます。明かりである灯は、部屋全体を照らすためのものでした。でも、それを升の下に置くとなれば、それは全く無意味であって、何の役にも立ちません。
主は私たちの光を升の下に隠す誘惑があることもご存知でした。救われてなお、光よりも闇の生活の中に潜り込もうとすることがないでしょうか。けれども、主イエスはそんな私たちに言われます。「あなたがたの光を隠すな」と。主イエスは私たちを通して、この世に神の栄光を輝かせようとしています。
逆に光を隠し、光であることをやめる時、私たちはあわれな存在になってしまう。この世への心遣いと信仰生活の二足のわらじに生きるなら、むしろクリスチャン生活は窮屈に感じないでしょうか。何かを握りしめて、くすぶった生き方をすることがある。それは塩気を失った塩と同じく、升の下の光として、全く無意味なものになってしまいます。だからこそ、主はそうならないように、むしろ光を暗闇に向かって放つように言われるのです。
Ⅱ. 人々の前で輝く光 v16
16節にはこうあります。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」。ここで「あなたがたの光」と言われるのを意味深く思います。主の光は、空から一様に降り注ぐような仕方で輝くのではない。私たち一人ひとりの人格を通して、またその固有の人生を通して輝くのだというのです。人々は輝くあなたを見て、「神様って本当にいるんだ」と思う、そんな仕方で主はご自分のことを伝えようとされるのです。
どのように輝くかというと、それは「人々があなたがたの良い行いを見て」とあります。ただ一方で、私たちは「自分の栄光を求めること」にある種の注意を払い、警戒することもあるでしょう。6章では「人に見せるために良い行いをするな」とも言われます。それは単に人々を感動させ、自分が目立つだけではない。自分があがめられるのが目的ではなく、神を指し示すような光です。だから「私が、私が」と焦らずとも、もし私たちが心から主を愛し、神を恐れて生きるなら、周りの人がそれと見てわかるものが自ずと現れてくるでしょう。
それにしても、神様はなぜこんな仕方を取るのかとも思います。全能なる神様は直接一人ひとりに天から声を響かせることもできたでしょう。ですが、土の器である私たちを用いて、ご自身を明らかにしようとされるのです。そうして私たちが光を放つと、その隣人も神をあがめて、また光を放つようになるというのです。そしてここに、世の暗さに対する真の解決があります。私たちそれぞれに、まことの神様が生きておられると教えてくれた灯のような人がいたでしょう。また今もそのような光を、教会の交わりの中で日々知らされることがあります。礼拝をささげる中で、私たちは自分の生活を暗くせずにすみます。暗さが増していく時代だからこそ、光はひときわ明るく輝きます。くすんだ明かりではなく、まばゆい光として、世に遣わされたいと願います。