マタイの福音書5章21〜26節
Ⅰ. 殺人の根 v21-22
主イエスは山上の説教で「律法学者やパリサイ人にまさる義」(20節)を語った後、十戒の真意を明らかにされます。「昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています」(21節)。人を不当に殺してはいけない、これは昔も今も常識です。ただ、さらに主イエスは言うのです。「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません」。実際に人を殺めずとも、誰かに対して怒り、苦々しく思う。そんな心を温め、敵意や憎しみを抱え続けるなら、それは殺人の罪に当たるという。そのように主イエスは、私たちの内面を問われます。
怒りを放置するとどうなるか。それは人類の歴史の初めから取り上げられていた問題です(創4章)。今も同じ原理で殺人事件が起きていますが、犯人の動機の多くは怒りや憎しみです。もちろん義憤もありますが、人の怒りはしばしば罪と結びつきます。だから怒るにしても、それが主の前にふさわしいかの吟味が必要です(エペ4:26-27, 31)。
単に怒りを押し殺すだけなら、別の所で吹き出すかもしれません。詩篇では赤裸々な思いを神に訴え、その上でさばきを委ねる姿勢が多く見られます。怒りが沸き起こる事態は避けられないとしても、それが悪意に満ちた怒りに発展するのは選択できます。怒りを感じたら、それを正直に認めつつ主の前でふさわしく取り扱われたいと思います。
また、22節はこう続きます。「兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます」。怒りはやがて罵りになりますが、人を罵れば、当時の最高裁判所である最高法院でさばかれ、「愚か者」といえば火の燃えるゲヘナに投げ込まれるといいます。ただ、それは少し大げさに受け取り過ぎではないかと私たちは考えます。もし人を殺したら、自分のしたことの恐ろしさにおののくでしょう。でも、言葉で人を傷つける位なら、「大したことはない」と思う所がないでしょうか。ただ、主イエスは「罵りは殺人と変わらない」と言うのです。確かに自分では重く捉えずとも、誰かに発した言葉が相手に突き刺さることがある。そんな世にあって、私たちに求められることは隣人を生かすことです。
Ⅱ. 兄弟との和解 v23-26
それが23節からの「兄弟との和解」というテーマに広がっていきます。自分と身近な人との間にわだかまりがあれば、それを進んで解消するようにといわれます。「ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい」(23-24節)。礼拝でいけにえをささげている時に、ふと兄弟が自分を恨んでいることを思い出しました。そうであれば、礼拝を中断してまず兄弟と仲直りしてから戻って来るように、というのです。
ここで主イエスは誇張表現を用いつつ、神への礼拝と兄弟との和解は切り離せないといいます。むしろ「兄弟との和解が、礼拝に優先する」とさえいう。私たちが神を礼拝することが、誰かに謝ることへの埋め合わせにはなりません。旧約の預言者が繰り返し語ったように、主のみこころを損なったまま形だけ礼拝しても、それは受け入れられません。「自分に悪いことがあって、あの人を傷つけてしまった」と気付かされつつ、「でも神に赦されているんだから、謝らなくていいか」と自己完結してはいけないというのです。
ただ、和解ほど、私たちにとって難しく感じるテーマはないと言えるかもしれません。もちろんそれらは個々の場合に様々で、関係修復に時間がかかり得ますし、一括りにもできないでしょう。その上で、主のことばを考えたいのです。25-26節では、和解が緊急を要するものだと言われます。「あなたを訴える人とは、一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります」。自分を訴える人が、裁判官にあなたを引き渡す前に、その同じ道にいる間に仲直りするように努めよというのです。同じ道にいる間、それは「私たちの生きている間」と理解できるでしょうか。その間は、まだ時が残されている。でも、やがてその時も終わりが来ます。
誰かとうまくいかない問題が起こっていて、特に自分から出た問題を放置すれば、いつか神の前に問われるという。26節の「最後の一コドラントを支払うまで、そこから決して出ることはできません」という言葉がその厳粛さを伝えています。1コドラントは、当時のローマの一番小さな単位のお金でした。このたとえは、まことの審判者である神の前に、私たちの人間関係が問われることを示しています。人の目には関わりを持たずに済ませられるかもしれない。でも、最後は神の前で「あれはどうなったか」と問われるといいます。
ただ、恐ろしさゆえに、ともかく形だけ謝って和解しようとするかもしれません。でも真の和解は、単に過去のことを水に流し、問題に目をつぶって、握手してハグしたら済むものでもありません。悪かった自分を顧み、罪を悲しみ、誠実に赦しを乞うのが必要な場合もあるでしょう。キリストによって神と和解させられた私たちには、この地上においても、兄弟と和解する可能性が開かれていることをこの箇所は教えています。
律法学者やパリサイ人は律法を、自分が努力すれば守れる程度にハードルを引き下げて、神のみこころを小さく理解しました。しかし、「殺すな」というみことばは、人間関係の回復を目指すものです。怒りや罵りという殺人の罪を捨て、隣人を生かすために平和を求めよというのです。
私たちにできるのは、自分を変えることだけです。自分に非があるなら、それを認めて謝ることはできます。でも、それで相手が受け入れて態度を変えるかは、その人の領域にあることです。他人を変えることはできません。ただ、神と和解させられた自分が、御霊に促され、自分の果たすべき分を果たすことが求められているのでしょう。
怒りを発する時、「相手が100%悪い」と思います。でも時間が経ち、相手の状況を知る時、自分にも非があったことが見えてくることがあります。神より正しい者になっていないか、立ち止まって考えてみる必要もあるでしょう。自分の罪を示される時、それを主の前に告白したいと思います。それだけでなく、その当事者である兄弟に対して、自分にすべきことをさせて頂きたい。主がまず、私たちとの和解の道を開いて下さいました。その神との平和を頂き、人を生かし、愛する者とされたいと思います。