「いつも心を一つにして祈っていた」 2019年8月

「いつも心を一つにして祈っていた」

2019年8月

使徒の働き1章12-26節

牧師  中西 健彦

私がキリスト者学生会(KGK)の主事として働いていた時、ある修養会に参加したことがあります。そこで、講師からこのような質問をされました。「私たちの働きには3つある。①『主のために働く』、②『主とともに働く』、③『主に働いて頂く』。あなたの働きにはどの要素が強いですか?」。それまでの働きを振り返るに、①「主のために働く」という要素が大きかったように思います。でも、顧みれば自分の期待以上に主が働いて下さる経験も多いことに気付かされました。信仰の世界においては、自分の頑張りと結果が必ずしも比例するのではなく、「主に働いて頂く」ことこそ最も大切にされるべきだとも言えます。ただ、単に全て神に丸投げすればいいわけではありません。その時に求められるのが「祈り」です。主は私たちの祈りに応えて、みわざをなして下さるのです。今回の箇所では、ペンテコステ直前の祈り会の様子が記されています。ここから、教会のあるべき祈りの姿勢を考えたいと思います。

12節には「そこで」とありますが、弟子たちにはペンテコステまでの10日間、聖霊の約束を待つことが求められていました。神の時を積極的に待つことは、そのまま信仰の応答です。成熟したクリスチャンは信仰によって、自分が抱えている問題と同居できる人です。その時々の状況に振り回されて、問題が起こると、すぐに無理やり解決しようと立ち回るのではない。かといって、「自分にできることは何もない」と諦めるのでもありません。やれることはやるにしても、主がその状況に介入して下さり、解決がもたらされることを祈りつつ待つのです。皆さんの歩みの中には、この主の介入を「待つ」ことがあるでしょうか。待つためには忍耐が必要ですが、主の働きによってのみ真の解決がもたらされることを信じるのです。

弟子たちは町に入ると、泊まっている屋上の部屋に上がりました。そこに集まったメンバーのことを考えると、ほとんど一度は主を信じて従うことに失敗した人達でした。ゲッセマネの園で、弟子たちは主を一人残して蜘蛛の子を散らすように逃げた。女弟子たちは最初、復活を信じられずに腰を抜かしそうになった。また、主の兄弟たちはイエスを信じずに、いらぬ助言をした。でも、それぞれが復活の主イエスと出会って変えられ、彼らはいつも心を一つにして祈っていたのです。

かつて主は、ルカの福音書11章で「求めなさい、そうすれば与えられる」と言われた後に「天の父はご自分に求める者たちに、聖霊を与えてくださいます」と約束されました。その意味で、祈りは聖霊を受けるのに最もふさわしい姿勢だと言えます。自力で主のために何か事を為せるという変な誇りは、祈りを遠ざけ、聖霊に満たされることを妨げるものです。自分に対する無力感からのみ、祈りが生まれるのです。

ここで弟子たちが一丸となって祈りに打ち込む姿が描かれます。彼らは時たま思い出したかのようにではなくて、それに専念すべきものとして祈っていたのです。ここで用いられる「いつも~する」という言葉は、その用例の半分が「祈り」と関係しています。人間的にあれこれ議論し、自分の考えで行動するというよりも、第一にみんなで神様の前に出る。そんな活動主義とは対極にある、祈りの姿勢がここに見受けられます。そして祈って待つ期間を経て、彼らの心はへりくだり、聖霊の約束に対して憧れを抱いたのでしょう。初代教会には霊的な深い一致があり、ここに「祈りの家」の原型がありました。神の約束があるから祈らなくてもよいのではありません。むしろ逆に、神の約束だけが私たちに祈りの理由と、祈りに神が応えて下さる確信を与えるのです。

ちなみに、ルカが記した「福音書」「使徒の働き」には、「祈り」という言葉が頻繁に出てきます。主イエスの祈る姿勢が初代教会にも引き継がれたことを、ルカは見逃しませんでした。実際、教会の根幹をなす働きの一つは祈りでした。神の計画が進展する時には、必ず祈りが伴っていたのです。私達はどうでしょうか。現代社会の雰囲気は私達を活動に駆り立て、目に見える結果を第一に求めさせます。祈りは観念的なものとしてしか見られず、ほとんど精神安定剤のようにしか思われないかもしれません。忙しさが美徳のようにされる時代にあって、祈りの生活を点検しなければと思います。マルコ9章で、弟子たちが悪霊を追い出せなかった時に、その原因は「祈りの欠如」だと主は言われました。私たちも祈りなしには、本当の意味で、主のためにできることは何もないことに気付かなければなりません。私たちの日々の生活には、神を待ち望んで祈ることがどれほどあるでしょうか。祈るためには意思を働かせて時間を取り分ける必要があります。祈るか祈らないか、気分に身を任せてはいけません。私たちがこの点で簡単に失敗するのは、祈りの力を信じていないというよりも、そのために時間を取っておかないからです。それは個人のディボーションにおいても当てはまります。祈祷会の機会も積極的に用いられるべきものでしょう。

15節以降の使徒補充の出来事は、この祈り会の流れにおける一つの場面です。約束された聖霊を待つにあたって、主を裏切ったユダの空席を埋める必要がありました。そこで、ペテロは120人の弟子たちの中で立ち上がって語り始めるのです。16節「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが、成就しなければなりませんでした」。ペテロは十二使徒の間で起こった裏切りから目を背けなかった。それは弟子たちに大きなショックを与えた事件でしたが、ペテロはそれも聖書の預言の成就であり、神の主権の下で事が動いていると言うのです。ユダの裏切りさえ主のみこころの内にありました。でも、だからといってユダの存在は必要悪で、その裏切りも仕方のないものだったわけではありません。ルカは18-19節でユダの悲惨な最後を記すことで、私たちにも警告を与えています。ユダのような裏切る心を放置して置かないように、自分の心を見張ることが求められています。

ところで、この使徒を選ぶ選挙で最終的にくじが用いられたことを、意外に思う人もいるかもしれません。それは旧約から新約へ移行する過渡期において、ふさわしいものでした。また、彼らは考えなしにデタラメにくじをひいたのではありません。選定基準を掲げ、それに見合う2人の候補者を120人の中から選び、主のみこころを求めて祈り、「人事をつくして天命を待つ」という意味でのくじ引きを行ったのです。24節「あなたがお選びになった」とすでに主が選んでおられるという確信の中で、主が心をご覧になってふさわしい器を選ばれるという確信に立った上での選挙でした。また、ここでも祈りが大きな位置を占めていました。祈りが深まる中でなすべきことが見えてきて、神に訊き、自分たちのなすべきことを行うという祈りの原則に従って行動したのです。くじはマッティアに当たったので、彼が十一人の使徒たちの仲間に加えられました。

このような初代教会の姿に倣いたいと思います。現代社会のスピード感、忙しさ、結果を第一に求める風潮の中で、静かに祈る意味が見失われていないでしょうか。主イエスも使徒たちもこの祈りがあってこそ、大きなわざを行うことができたのです。個人の祈り・公の祈りの機会を大切にしたいと思います。