「聖霊の約束」 

聖霊の約束

2019年7月

使徒の働き1章1-11節

牧師 中西 健彦

皆さんは、「伝道」という言葉にどのような印象を持っているでしょうか。福音を伝えることに最高の価値を認める人もいれば、「それは自分には難しい」と思う人もいるでしょう。かつて、私は後者のタイプの人間でした。しかし、「クリスチャンは実際に伝道してみなければ、学べないものがある」という宣教師の言葉を通して、自らを顧みさせられました。確かに、救いの恵みを知っているのに伝道しないなら、それはどこか歪んでいないだろうか…と思いました。聖書が一貫して語るのは、羊飼いのいない羊のようにさまよう人間の姿、そのような私たちを憐れんで救おうとされる神の姿です。このことがあってから、機会がある度に福音を伝えようと心がけてきましたが、確かにその中で自分の信仰理解が問われ、福音の素晴らしさに改めて気付かされています。

今の時代、待っていてもなかなか教会に人は来ませんが、だからといって教会が伝道しないでいいはずはありません。教会が福音を伝えなければ、世はその救いの言葉を聞くことができないのです。伝道しない教会があるとすれば、それは本来の姿とはかけ離れた矛盾した存在だと言えるでしょう。では、私たちはどのように福音を伝えることができるのでしょうか。一番大切なのは、まず私たちが福音の豊かさを味わい、その喜びが内からあふれる形で伝えることでしょう。福音そのものが、私たちの内側から喜びとして溢れ出し、信じる者たちを押し出し、遣わす力を持っているのです。

さて、今回から「使徒の働き」を通して、初代教会の姿に学びたいと思います。今日はその序論から、「教会には、聖霊の力によって主の証人になる使命が与えられている」ことを考えたいと思います。

復活された主イエスは弟子たちの間に40日間現れ、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」と命じられました。「父の約束」とは、聖霊なる神が弟子たちに与えられるという約束です。この10日後にはペンテコステの出来事が起こります。使徒たちは、何か大きな事が起こる予感がしたのでしょうか。「主よ。イスラエルのために国を再興してくださるのは、この時なのですか」(6節)と尋ねました。聖霊の約束や国の再興の約束は、旧約で預言された終わりの時のしるしでした。弟子たちからすると、いよいよ主イエスが王となり、聖霊が注がれて神の国が実現するか…という期待があったのでしょう。ただ、主は「いつとか、どんな時とかいうことは、あなたがたの知るところではありません。それは、父がご自分の権威をもって定めておられることです」と語ります。この「時」の問題は神の秘密であって、弟子たちが知る必要のない知識でした。弟子たちは、すぐに世の終わりが来て神の国が完成すると思ったのでしょうか。それならば、この「使徒の働き」は必要なく、弟子たちの出る幕はありません。でも実際は、主イエスの復活から再臨までの間にはいくらかの時が定められていました。この時、彼らに求められていたのは、父なる神の時を信頼して待ち、自らに委ねられた使命を果たすことでした。

その使命は「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」(8節)と記されます。これは「使徒の働き」の鍵となる中心聖句です。この約束は本書を通じて、さらにその延長線上にある現代の教会の働きを通して実現するのです。当時の弟子たちの数は、たった120人ほどでした。主イエスを失った彼らは、どのようにして世界に影響力を与える集団となり得るのでしょうか。その鍵は「聖霊」にありました。主イエスを生かした御霊が弟子たちの上に臨むのです。彼らの成功の秘訣は、その能力にあったのではありません。主イエスが天から送られた聖霊が、彼らを力づけ、弟子たちは主イエスの証人となるのです。

その働きのスタート地点は「エルサレム」でした。そこは彼らにとって思い出したくない挫折を経験した所であり、今なお困難が待ち受けている所でした。気持ちを新たにして別の地域で伝道を始めるのではなく、マイナスとも言える所から彼らの宣教は始まっていきます。福音を語っても、人々から不信感を抱かれることも想像されます。そこには弟子たちと個人的な関わりを持つ人たちもいたでしょう。そのような人達からは、自分たちの性格や知られたくない姿も知られていたと思われます。でも、彼らの証は身近な人々の所から始まっていくのです。

次に、「ユダヤとサマリヤの全土」と言われました。ここで「サマリヤ」が含まれることに、弟子たちはぎょっとしたかもしれません。サマリヤ人とユダヤ人は互いに犬猿の仲で、弟子たちにとって最も愛しにくく、その語る言葉も受け入れなさそうな人たちでした。私たちの好みに関わらず、教会には伝道する使命が与えられているということです。

そして最後に、「地の果て」まで宣教の範囲が広がるといいます。宣教の働きに地理的な制限は全くありませんでした。聖書を読んだこともない、教会と全く関係なさそうに見える異邦人のことも、神は心に留めておられました。エルサレムは当時のギリシャ・ローマ世界で辺境の地でしたが、そのような片田舎から、当時の世界の中心ローマに福音が広がっていきます。その後も、福音は世界中で実を結んで広がり続けています。今や使徒たちも知り得なかったこの日本、札幌、新琴似の地にまで神の国の福音が伝わってきました。地の果てに住む私達も、その約束の中に含まれています。この神の約束は歴史の中で成就し、教会は聖霊の力によって福音を宣べ伝えてきました。このように使徒の働きが一貫して示すのは、教会の主な働きの一つが「伝道」であるということです。

ここで、使徒たちは「わたしの証人」と呼ばれます。「証人」とは文字通り、既に起こった出来事について、自分が見聞きしたことを証言する人のことです。彼らは自分でイエスよりも大物になろうとしたのではないし、自力で人々に救いをもたらすわけでもありませんでした。彼らはあくまでもキリストの証人として、自分が受けた恵みを証しし、言葉と行いにおいて主の弟子であることを他の人々に示し、良い知らせを伝えるのです。その力は自分の内からではなく、聖霊によって与えられます。キリスト者はみな復活の証人ですが、一人一人に聖霊が与えられています。主が再び来られる日まで、私たちには聖霊の力によって、身近な所から地の果てに至るまで、主の証人としての働きが求められています。あなたには復活のキリストの証人であるという自覚があるでしょうか。誰か身近で悩んでいる人がいたとして、私たちが語る慰めには限界があります。でも、キリストの福音には、その人を根本から変える力がある。私たちがその良い知らせを作り出すのではありません。先に主がもたらして下さったキリストの福音を、私たちは証人として告げるのです。聖霊の約束を握って、遣わされた先で証をして参りましょう。