「わたしについて来なさい」

マルコの福音書11620

「なぜ牧師になったんですか?」と尋ねられることがありますが、最初から自分でなろうと思った訳ではありません。突きつめると「神に呼ばれたから」としか答えられない所があります。声をかけられ、呼ばれ続けている。それはクリスチャンになる時からずっと続いていて、その呼びかけにいかに応えるかが絶えず問われているように思います。

さて、今回の箇所は、主イエスが最初の弟子たち4人を招かれた場面です。他の福音書と違ってマルコは余分な情報を削ぎ落とし、主イエスの招きと弟子たちの応答のみを記します。その単純さの中に、主イエスの弟子になることの意味が端的に表わされています。主イエスはこんな第一声から働きを始められます。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。そして、主イエスはただ一人でそれをなさるのではなく、ご自分が選んだ人たちに声をかけ、その働きに招かれるのです。

それにしても、主イエスはなぜこの4人を最初に選んだのか。彼らの立場や能力に目を引くものはなかった。この漁師たちにしても驚きです。仕事をしていると、突然主イエスに呼ばれる。なぜ自分かはわからない。ただ、その理由は主イエスの内にありました。自ら弟子入りしたのではない。あくまで主イエスの方から、「わたしにはあなたが必要だ」と呼ばれたのです。しかも、彼らに見所や取り柄があったからでもない。この主イエスの眼差しに、自分のことも重なります。弟子たちの性格も様々で、多様なキャラクターの人たちが主に呼ばれます。

 彼らには既に仕事がありました。ガリラヤの漁師はそれなりに手堅い仕事の一つでした。しっかり働いていれば、生活は守られていました。でも、そんな彼らに主イエスは「わたしについて来なさい」と遠慮なく呼びかけます。これは直訳すると「私の後に来なさい」という言葉です。主イエスの後ろで、その背中を見つめて、従うようにとの招き。それは全部一人で背負い込むとか、主イエス以外の誰かを優先するということではありません。あくまで主イエスの後ろについていくのです。

 招きに従う先に、主イエスは「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われました。ただ、これは捉えようによっては、何か人を利用するように聞こえるかもしれません。確かに、魚の場合は釣ったものを食べたり売ったりしますが、人間をとる場合には、その人を真に生かすことが言われています。ペテロはそのことを、迫害下の教会に当てた手紙でこう書いています。「あなたがたはキリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです」(1ペテロ1:8-9)。試練の中で練られた信仰は金よりも尊く、キリストが現れるとき、栄光と誉れをもたらすといいます。ここで人間の漁師として働くペテロ自身、主イエスの後についていく喜びを知り、それを噛み締めていたのでしょう。だから、信仰ゆえの戦いがあったとしても、それに遥かにまさる喜びの知らせを大胆に伝えることができました。また、すごい約束なのはわかりますが、「果たして自分にそんなことができるだろうか」と思うかもしれません。ただ、主は自分の力で人間を取る漁師になれと言われた訳ではありません。あくまでも主についていく先に、主が私たちを造り変えて下さるのです。

 そうして、この4人は主の招きにすぐ従いました。尻込みしてもおかしくないのに、なぜ応じられたのでしょうか。そもそも彼らはこの時、どれくらい招きの意味がわかったのか。実際わからないことだらけだったと思います。でも、主イエスの招く声が、彼らの内に応答を呼び起こしたのでしょう。

 私たちが主に従う時も、基本的に同じです。先が見えずわからない中でも、その呼びかけに応えて踏み出す。そこに主の弟子としての歩みがあります。それが何か特別なことに思えるかもしれませんが、、普段から私たちは多くのことを信じています。進路を選ぶにしても、そこで何が待っているかは進んでみないとわかりません。誰かと友達になること、先生や上司につくこと、結婚することも、実際は相手の全てを知らない中でなされるものです。私たちは信じることなしには生きられません。ただ、信じた先にさらに呼ばれ、それに応え続けていくことによって、相手をさらに深く知っていく。主イエスを信じるのも、そんな世界です。一度従って終わりではなく、主の言葉を聞き、実際に従い続けていく中で、主イエスのことがだんだんわかっていく。逆にいくら聖書を勉強しても、実際に従ってみなければ、主イエスの本当の姿はわかりません。まず、呼びかけに応えてみること。これが、主イエスの弟子になる前提です。

 彼らがすぐに従った姿も覚えたいと思います。私の場合も、初めからこの道に進もうとしたのではありません。大学の研究室で自分の網を洗っていた所、主に呼ばれたのでした。それに応えようとした時に、色んな反対の声も聞こえてきました。「毎週メッセージを語るなんてできるのか。人を導けるのか。伴侶になる人はいるのか」。これらはその時、何一つ持ち合わせていないものでしたが、その一つ一つは、踏み出した先に確かに与えられてきました。主の声に従って捨てることは、新たに与えられるための条件です。大切なのはただ一つ、主イエスの招きに応えるか。主イエスの背中を見つめて、その後についていくかどうかです。必要なものは、その先に必ず備えられます。

 主の招く声に、条件をつけずにすぐに従うこと。主イエスは後にこう言われました。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです」(8:34)。イエス様の後についていくには、自分の十字架を負う必要があります。自分の十字架とは何か。これは私たちが自分に問うべき一生のテーマかもしれません。

 この後には色々な失敗をする弟子たちですが、ここですぐ従った姿については模範のように描かれています。彼らは主イエスの招きによって、人生の優先順位、いや人生そのものが変えられました。「悔い改めて、福音を信じなさい」と言われたように、彼らはまさに人生の方向転換をして、神の国に入りました。主イエスのみことばが聞こえる所、主イエスを王として従う所に身を置いたのです。それは私たち一人一人の人生に起こり得ることです。それで生活の場は変わらなかったとしても、主イエスに従う先に、網も家族も、かつてと違う全く新しい姿に見えてくるでしょう。ただ自分の小さな幸せのために働いていた所から、神の栄光のために生きるようになる。そうして人生の目的が新しくされるのです。主イエスは「わたしについて来なさい」と招いておられます。この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。改めて主の後に、自分の身を置き、主イエスの背中を見つめて歩みたいと思います。その先に、主をさらに深く知り、栄えに満ちた喜びを味わい、まことのいのちに生かされる道が待っているのです。