荒野を通られた主

マルコの福音書1章9〜15

10年前、フィリピン宣教地体験ツアーに参加したことがあります。行った先々では、日本でなかなか経験できないこともありました。冷水で体を洗ったり、招かれた家では普段馴染みのないものをご馳走になったりしました。ライスコーヒーという焦がしたお米の汁を飲んだり、アヒルの肉とかオタマジャクシとかが出てくる訳です。そんな経験を通して、宣教師たちの現地に適応する努力について学びました。主イエスもご自分の元の立場や栄光を捨てて、この世界に来られました。神はいかにキリストを送り、私たちを救おうとされたのでしょうか。

福音書は、序盤でバプテスマのヨハネの姿を伝えます。ヨハネは「私よりも力のある方が後に来られる」というので、人々は「一体どれだけ偉大な人が現れるのか?」と考えたでしょう。ただ意外にも、その来たるべき方は群衆に紛れて登場します。主イエスは私たち罪人と同じ目線まで降りてきて、ためらわずに私たちの仲間になって下さいました。主イエスが水から上がるとすぐに、天が裂け、御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になったといいます。そうして天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声がありました。その背後には、イザヤ書42章と詩篇2篇のみことばがあります。主イエスは人目には群衆に紛れつつも、その正体は「全世界を治める大王」のように登場します。

それにしても、この後描かれる展開は意外かもしれません。「それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた」(12)。荒野は自ら進んで行きたい場所ではありません。かつてイスラエルに旅行した時、ヨルダン川近くの荒野も通りました。そこは人が住むのに適した場所ではありません。昼は激しい日差しが照りつけ、夜は寒さに凍える。ぬくぬくとした快適な生活からは程遠い所です。そんな所に、主イエスは洗礼を受けてすぐ追いやられる。「あなたはわたしの愛する子」という声とともに下った御霊が、主イエスを険しい荒野に追いやってしまうのです。神に愛されることは、快適な歩みが保証される訳ではないのでしょう。

主イエスの歩みは荒野から始まった。それを改めて考えると、意義深いと思います。それは私たちも時に、人生の荒野を彷徨うからです。この世は楽園ではありませんので、私たちの人生にも不意に荒野が顔をのぞかせます。つい最近まで順調だったのに、突然荒野に放り込まれたように感じる。ふとした所に、荒野への入口が控えている。でも、そんなこの世に生きる私たちに先立って、主イエスがそこを歩んで下さったのです。

そして、40日間荒野でサタンの試みを受け続けられました。ちなみに、マタイやルカはその試みについて詳しく記す一方、マルコはたった2節だけで内容も記されません。でもだからこそ、洗礼を受けてすぐ荒野で試みられた事実を際立たせているようにも思います。荒野には危険な獣がうろついていました。この一言によって、悪魔は荒野で自由に働き、そこにいる者を餌食にする危険が描かれているように思います。この福音書を最初に読んだのは、迫害の中で試みられている教会だと言われます。ローマ帝国は初めキリスト教に寛容でしたが、時代が変わって、信仰を持っているために危険にさらされることもあった。この福音書を読む人々の多くは、主イエスと出会い、既に洗礼も受けていたでしょう。でもその洗礼を受けた先に、戦いが待っていた。まるで「あなたは私の愛する子」と言われた直後に、荒野に追いやられたようです。

今はその時代と違いますが、誰でもキリストにあって敬虔に生きようと願う者は必ず迫害に会う、とパウロは言いました。私たちも信仰の戦いにおいて、時に理不尽を味わったり、難しい事態に置かれることもあります。洗礼を受ければ、後は順風満帆な人生が待っているとは限りません。むしろ、こちらが求めずとも戦いや困難に向き合わされることもあります。そこで思い出したいのは、それは私たちだけの戦いではなく、既に主イエスが先に歩まれた所だということです。信仰者にとって荒野は行き止まりではない。そこをすぐに抜けられるかはわかりません。でも、試みに勝つ力は主から与えられます。 

ところで、イスラエル旅行の中で、荒野はとても興味深い観光場所の一つでした。その時は観光バスで移動し、ガイドも旅の仲間たちも一緒でした。だから、荒野の旅を楽しむことができた。ただ、例えばバスに乗り遅れて、荒野に一人置いてけぼりにされたら、たちまち恐怖に襲われるでしょう。荒野は同じような景色が続くので、方角がよくわかりません。自分はどこから来たのか、そしてこの道がどこへ続いているのかわからない。食べ物や水も、決して簡単には手に入りません。夜になると真っ暗ですし、危険な獣やサソリもいる。でもその荒野に、一人でも信頼できるガイドがいたら全然違うでしょう。それは現実の荒野でも、またこの世という荒野でも同じだと思います。そこでこのみことばが指し示すのは、まさに私たちの究極のガイドとして、主イエスが来て下さったという約束です。私たちの前には、先に試みをくぐり抜けられた主イエスがおられます。私たちはその後についていくのです。

神は、愛する子供たちを試みられます。試練は、神に愛されていない証ではありません。むしろ、愛されているから試みられることもある。主イエスは荒野で危険と隣り合わせになりながら、御使いの守りを得て、サタンの試みを受け、そこで負けませんでした。だから13節の「野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた」という言葉は、まるで主イエスが荒野さえも、王として治められたかのようです。主イエスは、この世の苦しみや孤独を知らない「温室育ちのメシア」ではありません。荒野の40日だけではなく、十字架に至るまでの道で、悪魔にことごとく勝利されたのです。だから、とりわけ荒野にいると思われる時、そこで礼拝をささげることは、私たちの狭い視野を広げてくれます。受験勉強に追われる時も、仕事で忙殺されそうな時も、ショックで寝込んでしまいたくなる時も、そんな時だからこそ礼拝をささげる必要があります。心配や不安が募り、悪い方ばかりに考えてしまう時、神の愛を疑ってしまうかもしれません。でも、それは悪魔のまやかしです。むしろ、荒野にも主イエスが来て下さり、その試みに打ち勝たれた。たとえ荒野に追いやられているかのように思えても、そこで一人ではない。主イエスも共におられる。神は御使いを送り、私たちを助けて下さいます。 

その後、主イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝え始めます。15節「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。「時が満ち」とあるように、旧約時代から待ち望んでいた約束が実現し、新しい時代が幕を開けるのです。「近づいた」というのは、もう目と鼻の先まで来ているような近さです。神の国は入ろうと思えば入れる所に、もう来ています。

神の国は「あなたはわたしの愛する子」という御声を聞いて、神との親しい交わりに生きる世界とも言えるでしょう。また、荒野を通る時にも一人ではなく、神の助けを頂ける世界です。そして、悔い改めて福音を信じることこそ神の国に入る道です。私たちの内には、いつも自分が中心に世界が回っていると考える、そんな傾きがあります。でも、あなたの主はイエス・キリストだと聖書は語ります。だから、絶えず方向転換が必要です。神の国の福音の中に、自らを投げこむのです。そうして、キリストの内にある喜びを味わうものとされたいと願います。