「神の子、イエス・キリストの 福音のはじめ」

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」
2024年3月
マルコの福音書1章1〜18節
牧師  中西 健彦

 神学校のチャペルで、ある先生が神学校の昔の校舎の話をされていました。空き地の奥にぽつんと佇む、全寮制の二階建ての建物は、ともかくオンボロだったといいます。そこで老若男女が一緒に暮らしている。何も知らない人からすれば、「一体ここは何をする所なのか?」と怪しまれたかもしれません。ただ、そんな校舎で、キリストの福音を知らされた人たちが学んでいました。「キリストの福音を伝えるためなら、人生惜しくない」と願う、神に召された人々です。そのような話を聞きながら、キリストの福音は、人の目には隠れていても、実は宝のような価値があると思わされました。
 これからしばらくマルコの福音書を読み進めていきます。神の子、イエス・キリストの福音(1:1)に生かされるとは、一体どういうことか改めて考えたいと思います。

Ⅰ. マルコによる福音宣言
 この福音書を記したマルコは一体どんな人だったのでしょうか。母もクリスチャンで、その家は初代教会の祈り会に用いられていました。後には、パウロやバルナバと一緒に伝道旅行に行くメンバーも選ばれます。でも旅先で、マルコは途中で家に帰ってしまう。それは大きな挫折の経験だったでしょう。パウロはこのマルコを情けないと思ったし、後に再びマルコを連れて行こうとするバルナバと正面からぶつかりました。結局、マルコはパウロ先生に許してもらえず、バルナバと一緒に行くことになりました。でも、パウロの晩年の手紙によれば、マルコは同労者として認められています。きっと、マルコは立ち直って信頼を取り戻す歩みを重ねたのでしょう。

 このようにマルコは偉大な先輩たちに囲まれつつ、その人達と同じではないにせよ、マルコにしかできない働きをした。おそらく福音書を記されたのは、主イエスの目撃証言者が少なくなる時代でした。ここで正確な証言を残しておかないと、イエス様の姿はあやふやになり、やがて歴史に埋もれてしまう。でも、そんな時にマルコが用いられ、私たちは今、この福音書を通して主イエスを知ることができます。

「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」(1節)という一節は、マルコの福音書のテーマが見事にまとめられています。福音書の前半には、主イエスが多くの奇跡を行い、力ある教えを語ったことが記され、読者に興味を抱かせます。このイエスとは一体何者なのかと。そして8章で、主イエスは弟子たちにこう尋ねます。「あなたがたは、わたしを誰だといいますか」。するとペテロが「あなたはキリストです」と応える。これが一つの山です。もう一つの山は、最後の十字架の場面です。イエス様が十字架にかかって死なれた直後、その出来事を見た百人隊長が「この人は本当に神の子であった」と言います。この2つの山に共通するのは、「イエスはどなたなのか?」ということです。

 あなたはイエスを誰だというでしょうか。2000年前の思想家か、偉大な宗教の教祖でしょうか。もし「神の子であり、私の救い主」と告白できたなら、その人はクリスチャンです。ただ、その信じる内容にも誤解が入り得ます。「あなたはキリストです」と応えたペテロも、誤ったキリスト像を抱いていました。私達もそれを笑えません。私たちも自分好みの救い主を頭の中で作り上げるからです。ですが、それが偽物なら速やかに打ち砕かれねばなりません。だからこそ改めて、本当の意味でイエス・キリストと出会いたいと思います。

 また、「福音」という言葉のルーツを遡ると、イザヤ書に記された神の民の希望につき当たります(イザヤ40:9, 52:7)。そこでは捕囚によって荒れ果てたエルサレムに、良い知らせが届くことが伝えられています。それはこの世が伝える良い知らせとは異質のものでした。マルコの時代も「福音」といえば、例えば「ローマ皇帝の誕生日」を指しました。けれどもマルコは、この世が伝える喜びと主イエスの内にある喜びは全く違うという。時代が違えど、この世はいつも私達に色々な喜びや幸せを提示します。そんな中で私たちは今、何に喜びを見出そうとしているでしょう。快適な暮らしか、成功した人生か、個人的な幸せを見出すことか。マルコは、キリストを締め出した所に本当の喜びはないという。神の子、イエス・キリストの福音。それはペテロも、パウロも、マルコも、後のクリスチャンたちの生き方を変えた喜びのおとずれ。それが今、あなたのもとにも届いています。

Ⅱ. 荒野で叫ぶ者の声
 ところで、主イエスは何の脈絡もなく世に突然来られたのではありません。救いの歴史を導かれる神が、時至ってイスラエルに救い主を誕生させました。2-3節ではイザヤとマラキの預言が引用されますが、終わりの日、神はご自分の民を新しくするために、身を乗り出してこられるといいます。その通り、バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えました。人々はヨハネの元に来て罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けました。自分には何か足りないと、日常の生活ではどこか満たされない魂の渇きを覚えて、人々はヨハネの元に行くのです。

 そこでヨハネは自分に関心を引き付けず、あくまでもキリストを指し示します (7節)。自分よりも力ある方を前に、バプテスマのヨハネは黒子に徹します。ヨハネは自分こそあがめられたいという願いから自由でした。委ねられた務めを果たしつつ、あくまでキリストを越えない。いつも主の道を指し示し、主イエスを指差すのです。ヨハネも主イエス・キリストの内に、喜びの訪れがあることを知っていました。

 私たちの本当の喜びは、神の子イエス・キリストの内に隠されています。教会には色々なニーズを持った方が来られます。例えば、病気が治るようにとか、安定した暮らしがしたいとか、将来が不安だとか。ただ、教会が語るのは、「キリストの福音を信ぜよ」ということが主です。一見、私たちのニーズと、教会の与えるものがミスマッチを起こしているかのようです。けれども、私たちが福音に耳を傾け続けるならば、本当の必要に気づかされていくでしょう。良い知らせを伝える伝令のように、マルコは私たちにもキリストの福音を届けてくれました。何かが足りないと魂の渇きを覚え、淀んだ生き方から、新たに主とともに歩む旅へと出発できるのです。主イエス・キリストを新たに知り続ける喜ばしい歩みに、また一歩踏み出したいと思います。