「主は道を造られる」

イザヤ43:16〜21 

今、私たちは様々な局面における転換期を生きています。世界各地で続く紛争、AIによる技術革新、超少子高齢化が進む日本社会、それに伴う無牧・兼牧の教会の増加。そのような時代ですが、北栄教会は来年教会創立70周年を迎えます。個人レベルにおいても、年ごとに向き合わされる課題も違いますが、そこで新たにみことばに従ってどう生きるかが問われています。聖書神学舎の元教師・舟喜信師は「柔軟性につながってこその聖書信仰」と言われました。みことばの権威について揺るがない信仰は不可欠な一方、時代の挑戦に答えるために、具体的な働きにおいては柔軟性がどうしても必要です。有意義な何かを新しく始めるためには、やめるべきことをやめることも必要です。慣れ親しんだものがなくなり、形が変わることへの不安もあるかもしれません。ただ、私たちの信じる主は変わりませんし、その時々に必要な導きを与えて下さることに信頼したいと思います。そのような転換期を生きる上で与えられたのが、このみことばです。

Ⅰ. 過去に起こった神の救い v16-18
イザヤ書40章以降には、「捕囚からの解放」について描かれます。主はご自分の民に言われます。「あなたがたのために、わたしはバビロンに使いを送り、彼らをことごとく逃亡者として下らせる」(14節)。当時の大国バビロンの覇権が揺らぐことはないと信じられた時もあったでしょう。けれども主はそのバビロンを退け、神の民に故郷に帰る道が開かれるのです。「海の中に道を、激しく流れる水の中に通り道を設け、戦車と馬、強力な軍勢を引き出した主はこう言われる」(16節)。ここには、バビロン捕囚より約1000年前に起こった、出エジプトのことが思い起こされています。当時イスラエルの民は、エジプトの奴隷でした。その民を救い出すために、主はモーセを選び、災いをエジプトにもたらし、ついにファラオも観念してイスラエルを自由にします。でも、すぐに心変わりしたファラオは、大軍を引き連れて追いかけます。一方イスラエルは紅海を前に宿営し、突然現れたエジプト軍を見てパニックになります。迫り来るのは、ファラオ率いる精鋭部隊。かたやイスラエルの民は、元奴隷の烏合の衆。逃げようにも、後ろは海。人間的には絶体絶命の危機です。けれどもその状況自体、主の計画の内にありました。どこにも逃げ場がない中、主は海の中に道を造られたのです。まさかそこに活路が開かれるとは思わない、人間的発想からは出てこない主の救いでした。
それから約1000年後、神の民はまた違う状況に置かれていました。神のおしえに背き続けた結果、南ユダ王国はバビロンに滅ぼされました。神殿は破壊され、遠く離れた地に捕らえ移された。その衝撃、絶望はどれほどだったでしょう。私たちにとっても、この2024年の年明けは災い続きです。私たちは色々な予定を立てますが、この出来事は私たちの計画通りに進むとは限らないことを伝えています。私たちの人生には、思い通りにならないことが沢山ある。でも、今も神が世界の王であることは確かです。もちろん、わからないことも沢山ありますが、主は私たちと共にいますお方です。人間的には途方に暮れそうになっても、主はそこに新しい道を造ることがおできになるはずです。

神はかつて起こった出エジプトを振り返りつつ、それに囚われるなと言われます(18節)。イザヤがここで描くのは、いわば「新しい出エジプト」。イザヤの語る民の状況は、かつてのエジプトの時とは違いました。そこで主は全く同じことをするのではなく、新しいみわざをなさるのです。聖書を読んで気付かされるのは、その時代ごとに異なるチャレンジがあり、その都度神は違った方法でご自分の民を救われることです。昨日と今日は違います。だからこそ、いつも主を見上げて歩まねばなりませんし、その時々に必要な神の助けがあるはずです。

Ⅱ. 新しいことを行う神 v19-21

「見よ、わたしは新しいことを行う」(19節)。かつて海の中に道を造られた主は、荒野にも道を造られます。私たちはそこに参与させて頂くのですが、かつての主のみわざ理解を抜きにして、新しいみわざは理解できません。一方で、昔のことだけに囚われていても、新しいことはわからない。それはご自分の民への愛と恵みは変わらずとも、その時々の状況に応じて、主は以前と全く同じではなく、形を変えて自由に働かれることを教えています。

ところで、ここで言われる「新しい出エジプト」とは何でしょうか。それは捕囚にされた民にとっては、バビロンから約束の地に帰ることでした。ただ、この預言はそれだけではなく、いわば終末的な救いの現れとして描かれています。苦難のしもべのもたらす贖い、神の都シオンの回復、新天新地の幻。これら全て、神のなさる「新しいこと」です。歴史の主は、その時々に道を造り、救いのご計画を実現されます。

教会の歩みにおいても、時代毎に異なる課題があります。かつて起こったことも、その時々には「新しいこと」でした。その数え切れないハードルを主と共に乗り越えさせて頂いた先に、今があるのです。「今、それが芽生えている」とも言われます。大きな変化の前にも、既に兆しがある。必要な変化を起こすためのものは、既に与えられているのです。とはいえ、私たちは過去の栄光にすがりたくなります。確かに、主の良くして下さったことは感謝しつつ、忘れずにいたいと思います。ただその一方で、神がなさる新しいことにも目を向けたい。いつも聖書は「今を生きよ」と私たちに呼びかけます。神の恵みによってここまで来ましたが、今もなお途上です。北栄教会の70年もそうです。主から頂いたタラントを精一杯用い続けたいと思います。
「わたしのためにわたしが形造ったこの民は、わたしの栄誉を宣べ伝える」(21節)。主のものとされた私たちは、神の栄光を現すために生きています。このみことばは、そんな私たちが賛美の人生を生きるのだと教えています。それは私たちが本来造られた「神のかたち」を取り戻すことでもあります。主はご自分の民のために、人間の思いを越えて新しい道を開かれます。この2024年、転換期を主にあって生きたいと思います。