「国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです」

29:10〜13、黙5:11〜14

 
これまで巻頭言では、教会の歴史において大事にされてきた三要文(十戒・使徒信条・主の祈り)を扱ってきました。今回が最後ですが、主の祈りの最後の言葉を取り上げます。「国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです」。この言葉は新しい訳の聖書本文には含まれていません。ただ、マタイ6章13節の欄外注によれば、「後代の写本に加わっているものもある」とあります。議論がある箇所ですが、最古の写本にないため、おそらくマタイが記した言葉ではないと思われます。しかし、教会が誕生して間もなくこのフレーズが追加され、しかもその内容は聖書全体のメッセージと見事に調和しています。ある人は、主の祈りを繰り返し祈っていれば、この賛美の言葉に自然と行き着くといいました。たとえ元の聖書に無かったとしても、この祈りの締めくくりとして、これ以上にふさわしいものはないでしょう。

Ⅰ. ただ神にのみ栄光を Ⅰ歴29:10-13
主の祈りは父なる神への呼びかけに始まり、賛美で閉じられています。このフレーズは祈りに賛美が不可欠だと教えています。「祈りは神との会話」だと言われます。人間関係に置き換えても、いつもお願いばかりしてくる人に対しては寂しく思うのではないでしょうか。むしろ親しい関係を築くためには、相手の存在を喜ぶ姿勢が必要でしょう。祈りは神になされるものですから、それが賛美と感謝において表れるのです。確かに困難な状況に置かれた時、願い事ばかりに目がいきます。けれども、主ご自身を見上げる時、「そうだ。このお方が私の主なのだ」という事実に目が開かれ、このお方の偉大さを思うので、主への賛美が沸き起こるのです。またこのフレーズの原型は、第一歴代誌29章のみことばだと言われます。ここに記されるのはダビデの生涯の晩年、息子ソロモンに王位を受け継ぎ、神殿建設の働きを委ねる場面です。ダビデは決して完璧な人ではありませんでした。大きな罪を犯し、自分とその周囲に悲劇を招きました。けれども、神はそれにもまさって恵みとまことに満ちたお方であり、波乱万丈の生涯を導き、イスラエル王国とダビデ自身を栄えさせて下さった。ダビデは神殿を建てるために自分の宝を献げましたが、その完成を見ずに召されていくのです。彼が担ったのもまた、神の歴史の一部でした。ダビデが語るように、与えられた恵みを感謝し、主を賛美するものでありたいと思います。

Ⅱ. 主の祈りが完全に成就するとき 5:11-14
次に、「国と力と栄え」という言葉に注目しましょう。「国」とは神の支配のことで、主の祈りの中心テーマです。「力」とはこの世界を造り、今も治め、救いをもたらす神の大能の力のことです。「栄え」とは栄光です。福音書においては、この「栄光」を表す言葉は、キリストの十字架においてその究極の姿を現します。この国と力と栄えを持っておられる主に、自分が全く依存していることを告白する。その意味で、主の祈りは徹頭徹尾、神への信頼を表す言葉です。

この世は「国と力と栄え」を求めています。サタンは光の御使いの姿に変装し、まことしやかな偽りの神を仕立て上げ、神ならぬものを拝ませようとする。アロンが自分のイメージで金の子牛を造ったように、私たちも御言葉を御言葉として聞けなくなる時、まさにそのことが起こります。私たちの善意さえ、サタンに利用されることもある。ですから、私たちは自らの危うさを覚えつつ、目を覚まして祈る必要があります。

これに関してもう一箇所、ヨハネの黙示録5章を開きたいと思います。ヨハネは世界最強のローマ帝国が教会に対して迫害の手を伸ばそうとする最中に生きていました。仲間の使徒たちは次々と殉教し、最後まで残されたヨハネも島流しに遭っていた。現実を見るなら絶望しかないような中で、ヨハネは聖霊によって天に挙げられ、現実を越えた真実を目撃します。それは天の礼拝の幻でした。そこで彼は、主の祈りが完全に成就した世界を見るのです。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です」(5:12)。屠られた子羊とは、キリストのことです。十字架によって敗北したかのように見えつつ、実はサタンに対する最終的な勝利を勝ち取って下さったのです。私たちの救いはこのお方にかかっている。また、13節では、すべての造られたものが声を合わせて言うのです。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように」。

 黙示録に書かれた厳しい現実は、世界の歴史において繰り返されてきました。そして今も、不安定な世界にあります。この神の支配が見えにくい中だからこそ、御言葉に明らかにされた終末の視点を覚え直したい。「国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです」と賛美する時、天の礼拝の幻を先取りするのです。いかに困難な状況を生きることになったとしても、最終的に神が悪に勝利し、新しい世界が実現する。この終末の約束に目を留める限り、私たちには希望があります。パウロとシラスが牢屋に入れられた時も主を賛美していたように、私たちを取り巻く状況が過酷でも、賛美は可能なのです。

 これはどうなるかわからない事柄ではなく、「あなたのものだからです」とみことばの約束の上にある事柄です。一般的に「現実を見よ」と言われる時、浮かれた考えを問いかけられることでしょう。聖書も私たちに、ある意味で「現実を見よ」といいます。確かに、眠り込んでしまわずに、目を覚まして祈らなければならない現実があります。ただそれだけではなく、終わりの日に完成する希望を信じて、それを先取りせよというのです。キリストの復活のみわざによって、神の勝利は確定しています。あとは神の国を地上で建て上げながら、主イエスの再臨を待つ。その時代に私たちは生かされています。私たちは平和を求めますが、罪ゆえに地上が楽園になることはない。けれども、希望を失ってはいけません。神が既に勝利を得ておられるからです。国と力と栄えとが最終的に神様のものであるから、私たちは今日も、自分に委ねられた務めを誠実に果たすように促されます。世界はいよいよ暗さを増し、呻きの声が大きくなり、心が押しつぶされそうになったとしても、主の祈りを祈り続けたい。

 14節では、天使と思われる四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝します。ハイデルベルク信仰問答では、このアーメンという言葉の解き明かしにおいて、私たちの心で感じるよりも、確実に祈りが聞き届けられていることを伝えます。自分が今、本当に祈れたという充実感を味わうかどうかは、実は大きな問題ではない。もっと確かな事は、既に神が聞いて下さっているという確かさだと。私たちは疑いつつ祈ることもあれば、この祈りは聞かれているのかという不確かな思いが付きまとうことがあります。しかし、私たちが神に祈る時、それは独り言に終わらず、確実に聞かれている約束がある逆に、私たちがいかに心を注いだ祈りよりも、遥かに大きな真実を持って、神は私たちを捉えていて下さっている。そのことに信頼し、たゆみなく祈り続けるのです。