「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください」 

マタイの福音書6章13節,26章31~41節

かつて聖書の次によく読まれたとされる本に、ジョン・バンヤンの「天路歴程」という古典があります。主人公「クリスチャン」は伝道者に出会い、滅びの町を出て天の都を目指す旅に出ます。その旅路にはいくつもの難所があり、困難の丘・死の陰の谷・虚栄の町・疑いの城といった所を通らなければなりません。ただ、その旅には信仰の仲間たちとの出会いもあって、みことばの真理に立ち帰ることで、困難を乗り越えていく。信仰の旅路には恵みがあふれていますが、同時に危険と隣り合わせであることも興味深く教えてくれるのです。
日々試みられる出来事があります。だからこそ、主の祈りは「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください」という願いで締めくくられています。この祈りは、自らの無力を認め、神の助けを願う祈りです。私たちは問題が起こるとそれを抱え込み、これは自分の対処に全てかかっていると気負います。でも、もっと神に委ねることを学ぶように、この祈りは私たちを促します。

Ⅰ. 自らの無力を認め、悪に抵抗する祈り
ちなみに、この祈りの「試み」という言葉をどう訳すかについては議論があります。元の言葉は「試練」(良い意味の文脈)とも「誘惑」(悪い意味の文脈)とも訳せるのですが、ニュアンスが違います。元の言葉が「試み」と訳されるのは、おそらくその出来事が良い方向・悪い方向のどちらにも転び得るものだからでしょう。私たちの現実には、常に信仰の戦い、せめぎあいがあります。例えば、大病を経験して信仰が目覚める人もいれば、反対に自暴自棄になる場合もある。試練は決して生易しいものではなく、ギリギリまで問われるものです。試練を克服出来なければ、誘惑となって神から離れるきっかけにもなりかねない。だから、私たちは自らの弱さを認め、あらゆる試みを乗り越えられるとうぬぼれるのではなく、神の守りを願う必要があります。

また、この祈りに含まれる「悪」は、自分の罪と悪魔の2つが考えられます。私たちはみな、生まれながらに罪に対する傾きを持っています。それは信仰を持ってからも、戦い続けなければならないものです。また、聖書は悪に導く誘惑者について明確に語ります。創世記3章には、その誘惑の原点が書かれています。そこに描かれた誘惑の手口は、今もサタンの常套手段です。まず、サタンは味方面をして近づき、「かわいそうに、神はあなたから良いものを奪っているのでは?」と囁きます。そうして神を意地悪な暴君に仕立て上げ、不信感を抱かせます。そして私たちの隙を突き、「これさえ手に入れば幸せになれる」と欲望を掻き立て、最後には真っ向から神の言葉を否定します。けれども私たちが罪を犯した先には、「お前はもう駄目だ」と罪悪感で苦しめ、神のみ顔を避けるようにさせる。これが誘惑の手口です。

私たちは、自分の弱さを知っているでしょうか。誘惑されやすい点は、人それぞれ違います。ある人はお金に対して執着し、ある人は感情のコントロールが効かなくなる。自信に満ち溢れているために神を見ない場合もあれば、いつも悲観的に考えて自己憐憫に陥ってしまうこともある。私たちはそんな自分の弱点を知り、助けを必要としています。そして、主イエスがこの願いを教えられたのは、その助けが用意されているからこう教えられたのです。

地上は、絶えずサタンと罪によって攻撃にさらされる戦場です。その霊的な現実を、私たちは知っているでしょうか。悪魔との戦いにおいては、緩急織り交ぜて絶えず攻撃にさらされていることを忘れてはなりません。ある時には、私たちを苦しめて絶望の淵に追いやり、神に対する不信感を抱かせます。ある時には、私たちを成功と偽りの幸福感によって満ち足らせ、神がいなくても自分はやっていけると思わせる。苦難で苦しめることも、成功で酔わせることもどちらも誘惑です。この攻撃を自覚しつつ、神に信頼してそこからの助けを祈るのです。

Ⅱ. ふるいにかけられる経験 26:31-41
この祈りの実例といえるエピソードが、同じマタイの福音書26章に描かれています。主イエスは「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と弟子たちに言われた所、ペテロは答えました。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」。そこに表れたのは人間的な熱心、また自分は大丈夫という過信でした。ペテロにしてみれば、イエス様は自分を見くびっていると言いたかったのでしょう。さらに主が「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言う」といわれたら、そんなこと死んでもしないと言うのです。

でも後に、ペテロを始めとする弟子たちは、サタンの篩にかけられます。祭司長たちから送られた人々の手に、主イエスはあっさり捕まってしまう。弟子たちは皆逃げました。かろうじてペテロは大祭司の庭に侵入しますが、そこで主の予告された通りに主を否認します。この話は、私たちの人間的な熱心がいかに脆く、試みが襲う時に簡単に消え失せてしまうことを教えています。

ペテロの失敗の原因は、自分を信じ過ぎたことです。ゲツセマネでは、主イエスから「目を覚ましていなさい」と言われていたにも関わらず、眠り込んでしまう。それはペテロの霊的な状態を象徴しています。そんな彼に主は言われました。「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです」。これこそ第6の祈りの核心です。霊は燃えていても、肉は弱い。自分は大丈夫だと思っていてはいけない。自分の弱さを自覚し、目を覚まして祈っていなければ、戦う前から負けているのです。

他方、主イエスはゲッセマネで必死になって、父なる神にすがりつくように祈っています。父なる神に正直な思いを伝え、3度繰り返して祈りました。その祈りの格闘を経たからこそ、悪の誘いに捕らわれず、十字架の贖いが成し遂げられました。荒野の誘惑に始まり、主イエスの歩みは試みの連続でした。ゲツセマネの祈りは、その最たるものです。しかしそこで、主は眠り込みません。自分の思いよりもみこころがなるようにと願われた。サタンの篩にかけられる時、祈り抜いた人だけが悪の誘惑に立ち向かえるのです。

そこでなお私たちが確信したいのは、その悪に対する戦いの最終的な決着は既についているという事実です。主イエスは十字架と復活の御業を通して、すでに悪との戦いに勝たれました。それならば、この祈りは最終的な勝利を先取りする希望の祈りになります。私たちもまた、自分の十字架を背負い、主イエスの背中を見つめて歩んでいます。このお方は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点で私たちと同じように試みにあわれました。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づくものでありたいのです。神は真実な方ですから、私たちが絶えられない試練にあわせることはなさらない。むしろ、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。

私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。この祈りは、自らの弱さを認めた上で神にすがり、悪からの救いを願う祈りです。教会はこの祈りを共に祈れる所です。私たちは一人で孤独に戦うのではありません。あの天路歴程に書かれていたように、私たちそれぞれが滅びの町から導き出されて、天の都を目指す仲間です。それは一人旅ではなく、教会の交わりと共に目指すのです。枝会や祈祷会といった交わりもあれば、炎の祈りを通してとりなし合っている。この交わりに支えられつつ、第六の祈りを祈る先に、神の助けを頂き、涙の谷を通る時も、振り返れば祝福の泉の湧く所に変えられていることを知るのです。