「私たちの負い目をお赦しください」 

マタイの福音書6章12節,18章21~35節

 

 主の祈りの5つ目は「罪の赦し」に関する祈りです。私たちは目に見える罪を犯すこともあれば、心の中で罪を犯すこともあります。神と人とを愛するのが人間本来の姿ですが、生まれながらに罪人である私たちは神に背を向け、自己中心的な思いに囚われてしまいます。そんな私たちみなが抱える罪の負債について、主イエスは私たちが自分で返せるとは考えず、その赦しを願うように教えられました。

 なお、この祈りは弟子たちに教えられたものです。クリスチャンになれば、その日から完全になる訳ではありません。罪を犯すまいと考えても、結果として古い罪の性質に捕らわれてしまう。だから罪の赦しを求めて、日々十字架に立ち返る必要があります。罪の自覚が曖昧になると、自分は大丈夫だと自らを欺き、霊的に眠ってしまいます。罪は神との交わりを邪魔し、救いの喜びを失わせます。ですから、自己吟味し、罪の告白とともに、赦しを求めたいと思います。

 もう一つ考えなければならないのは「私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します」という言葉です。誰かからひどい目に合わされ、赦せない人がいるかもしれません。「あの人だけは赦せない」と考える私たちは、この祈りの言葉に戸惑います。「神なら赦して当然だ」と私たちは安易に考えますが、自分が誰かを赦さなければならない時、そこにある困難に気づかされます。

 では、他の人の罪を赦さなければ、自分の罪は赦されないのでしょうか。特に、昔の主の祈りの言葉では「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく」というフレーズが先に来ますから、そう考えやすいかもしれません。ただ原文では「我らの罪・負い目を赦し給え」という方が先に来ています。私たちが誰かを赦すことが、自分の罪を赦して頂く前提条件ではありません。これは聖書全体からも言えますが、救いの根拠は私たちの行いではなく、あくまで神のわざにあります。ただ、他人を赦すことは救われた者の生き方でもあります。

 それを解き明かす話が、マタイ18章23節以降に書かれています。そこでは王に対して負債を抱えたしもべが出てきます。1万タラントは、約16.4万年分の給料という途方も無い借金です。もちろん彼は返せないので、主人は彼に全てを売り払って返済するように命じます。それも焼け石に水で、1万タラントには到底及ばないでしょう。家来はひれ伏して「もう少し待ってください」と言いますが、それも苦しい。どうあがいても、待っているのは破産しかありません。でも、そこで「主人はかわいそうに思って彼を赦し、負債を免除してやった」とあります。この決断は主人にとっては大損でしたが、しもべにとっては信じられないような恵みとなりました。これは聖書の語る福音そのものです。1万タラントの負債は、私たちの罪の巨大さを表しています。借金まみれの破産状態。私たちはやがて、この地上の生き方を全て清算される時が来ます。もし神の赦しがなければ、このしもべのように絶望しかありませんでした。

 罪の赦しはタダではありません。この喩えを語った後、主イエスは十字架にかかられました。そこで私たちの罪を身代わりに背負い、神のさばきを一身に引き受けられたのです。それを抜きにして私たちの赦し、救いはありえないものでした。私たちに与えられる赦しは、神が私たちの罪に目をつぶり、それを大目に見たからではありません。借金を主イエスが肩代わりして下さったのです。ですから、私たちの救いは決して軽いものではなく、御子のいのちがかかっています。

 話はここで終わりません。このしもべが晴れ晴れと出て行くと、ある見知った顔に出会います。「あっ、そういえばあいつに百デナリ貸していたのに、まだ返してもらっていなかった」。1デナリは一日分の給料ですから、約100万円くらいでしょう。それでどうしたかというと、彼はその人を捕まえて首を絞めて「返せ!」と言う。その人はひれ伏して懇願します。その懇願の言葉は、しもべが王に対して言った言葉とほとんど同じです。でも彼は承知せず、牢屋にその人を放り込みました。

 この後、一部始終が主人に知れ渡り、主人はしもべを呼んで責めます。確かに100デナリはそれなりに大きい額です。でも、彼は自分が1万タラントの負債を赦された立場を忘れていました。1万タラントは、100デナリの60万倍です。この落差がこの譬えのポイントでしょう。私たちが誰かを赦すためには、まず自分がどれだけ赦されたのかを知らねばなりません。私たちが誰かを赦すことは、自分の力や気合の問題ではない。誰かから損害を受けたとして、それと比較にならないほどの赦しをまず自らが受けている。私たち自身、7の70倍赦されています。その重みを知ることによってのみ、赦す者とされるのです。

 一方、「不正に目をつぶっていいのか」という疑問も浮かぶかもしれません。これについて聖書は、至る所で一人一人に罪の悔い改めを求めています。マタイ18章でも、この譬え以前に兄弟の罪を責める必要が言われていました。他者の過ちを赦すことと、罪の問題を放置しないことはまた別の問題です。ただ、最終的には赦しを求めるのですから、世の感覚からすれば甘いと思われるやもしれません。小説やドラマでも復讐の物語は人気です。しかしクリスチャンは、正義と赦しのどちらも目指します。「何でもあり」と「絶対赦さない」という両極端を避けて、みことばの剣は私たちを刺すのです。

 誰かから理不尽な目に会わされた時、仕返したくなるのが私たちです。愛による想像力がないために、人を傷つけてしまう。罪は被害を受けた側の憎しみを呼び覚まし、復讐と怨念の連鎖が生まれていく。それが地上における罪人の営みです。しかし、そんな世界にキリストは来られました。罪の被害者として、しかもその加害者である私たちの罪を背負い、十字架で死んで下さったキリスト。その贖いによって、私たちは救われたのです。主イエスの弟子は自分の十字架を背負い、主イエスの後についていきます。その一つに、私たちも赦す者になるようにという招きもある。ここに、地上での憎しみの連鎖を断ち切る鍵が隠されています。

 罪に気付かされた時には、すぐ具体的な告白によって悔い改めたいと思います。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(Ⅰヨハネ1:9)。この恵みの約束に立ちながら、赦しを確信するまで祈るのです。この赦しを頂いているからこそ、私たちも他者を赦す者とされる。他人の罪を赦すことは、本当に赦された者のしるしです。それはまた、恨みの人生から私たちを解放することにもなります。

 赦しがたい人がいるかもしれませんが、「主よ、このことについて助けて下さい。わたしはこの人を赦せません」と祈ることはできます。問題の中に主をお招きし、赦せない自分を取り扱って頂きたいと思います。十字架は、自分が赦せないあの人のためにもある。だから、どうにもならない自分、赦せない思い、憎しみも神の前に手を開いて、さばきも神に委ねる信仰に立つ。そうする時、私たちは憐れみ深いキリストの姿に似せられていくのです。