「地の塩、世の光」
マタイの福音書5章13~16

   アメリカの名説教者ジョン・パイパーが記した著書「無駄でなかったと言える生き方」には、高齢になってからクリスチャンになった人の話が載っています。教会は彼のために何十年も祈り、ついにある時、信仰告白したのです。神がその心を開き、彼は救われました。ところが、彼はむせび泣き、「これまでの人生を無駄にしてしまった」と嘆いたというのです。この話はパイパーの心を捕らえ、「自分の人生を無駄にしないためにどうすべきか」を考えさせられたそうです。そして、神の栄光を現す人生こそ無駄にならない生き方なのだと思い至りました。一度限りの人生はすぐに過ぎ去りますが、キリストのためにしたことはいつまでも残るからです。

北栄キリスト教会は、今年で70周年を迎えます。そこで、「北の大地に神の栄光を現す」という原点に立ち戻りたいと思います。70年前と今では、時代も社会も大きく変化していますが、永遠に変わらないみことばを握り、主の助けを頂きながら、これからも神の栄光を現し続けるものとされたいのです。

今年は主イエスの語った「山上の説教」(マタイ5-7章)を講解する予定ですが、その中の5章13-16節では、主イエスの弟子が「地の塩・世の光」になぞらえられる有名な箇所です。ただ、あなたがたは地の塩・世の光だと言われる時に、「いや、それほど人の役に立っていない」「自分がそんな存在とは思えない」と少し気後れする思いになるかもしれません。けれども、主イエスは私たちの現実を知った上で、そのように語られるのです。主イエスは弟子たちに「地の塩・世の光となれ」と言われず、ただ「あなたがたは地の塩・世の光なのだ」と言われました。頑張って努力してようやく地の塩・世の光になるのではなく、キリスト者とされた所で、もう地の塩・世の光とされているというのです。その上で、私たちはその立場にされた者として、ふさわしく生きることが求められています。それでは、地の塩・世の光とはどのような存在なのでしょうか。

Ⅰ. 地の塩 v13

 まず、「地の塩」から考えたいと思います。古くから活必需品として重宝された「塩」には様々な役割があります。例えば、「食べ物を腐らせない」とか「味を付ける」機能があります。裏を返せば、「地」は放っておくと腐敗する傾向があるということでしょう。現在も続く戦争は、一度振り上げた手を下ろすことがいかに困難かを物語っています。また、偽りや不誠実、際限のない人間の欲望、また性倫理の乱れが顕著です。家庭が傷つき、いのちが軽んじられ、盗みも横行しています。しかし、地の塩はその罪による腐敗を押し留めようとするのです。

 「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか」とも言われています。これを読んで不思議に思うかも知れません。例えば、台所の塩には賞味期限の記載はなく、半永久的に持つようです。ただ、主イエスがいう「塩」とは、死海で取れるような岩塩が想定されているのでしょう。岩塩には不純物が混ざり得ますし、風化すると塩分が溶け出します。それで後に残るものは、何だかわからない塊。それはもはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。主はそのように、キリスト者が塩気を失う危険があることを伝えているのです。もしキリスト者が本来の姿を捨てて世に流されれば、塩気は失われ、本来の役割を果たすことができなくなります。いかに世渡り上手でも、主の目には何の役にも立たないものとなってしまう。ラオディキアの教会は生ぬるい信仰に甘んじて、主から「熱いか冷たいかであってほしい」と言われてしまいました(黙3:16)。どっちつかずの中途半端な状態ならば、主に従う先にある祝福も味わえず、人生を無駄にしてしまいます。

 だから、パウロも「この世と調子を合わせてはいけません」と言っています。地の塩は、明らかにこの世と一線を画すものです。ピリリと辛い塩味を持って、罪による腐敗を防ぐことが求められている。塩気を失わないために、改めて主の弟子として自己吟味したいと思います。主イエスは「あなたがたのおかげで、この世は腐らないで存続するのだ」と、私たちに大きな理想を持って下さるからです。

Ⅱ. 世の光 v14-16

 次に、「世の光」について考えてみましょう。この表現も、裏返せば世が暗闇である事を示しています。罪と悪魔の働きによって、この世は混沌としています。だからこそ世は光を求め、暗さが増す時代だからこそ、光はひときわ明るく輝きます。「山の上にある町は隠れることができない」とも言われるように、キリスト者は自ずと存在感を持っています。「何かこの人は違う」と思わせ、その生き方は神を指し示します。私たちが光源ではありませんが、キリストの栄光を反映するのです。

   一方、枡の下に明かりを置けば、光は当然見えなくなります(15節)。そんな馬鹿げたことは普通しませんが、ふとすれば私達はそれと同じようなことをしてしまいます。信仰を公にする面倒を思うとあえて言わないとか、「自分がクリスチャン代表と見られるのも困る」と思うかもしれません。この世と同化して光を隠し、まるで信仰がないかのような振る舞いをしてしまう。しかし、それは自らの使命を手放してしまうことです。

   むしろ、「あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい」(16節)と言われるように、光は燭台の上に置くのです。ただ、自分を他人に見せるのはどうだろうかと思うかも知れません。確かに、「人に見せるために善行をするな」(6:1)とも言われますが、ここで主イエスは違う目的を示そうとされます。「天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」とあるように、神の栄光を現すために良いわざを行えというのです。「輝かせよ」というのが、この箇所における唯一の命令形です。私たちは救われて世の光とされましたが、後は自動的にその効力を発揮するというよりも、光を輝かせる必要がある。この箇所の直前では、御名のために迫害される事も言われていました。人々がこの光を見た時、そこで戦いが起こるかもしれません。でも、それも含めて闇を照らし、神の栄光を現すのでしょう。この地上で、神は私たちを通してご自分の栄光を現そうとされるのです。

 自分に塩気を保ち、光を輝かせるためには、日曜だけの礼拝者という訳にはいきません。普段何気なく過ぎていく日常でも、飲食一つとっても神の栄光は現れ得ます(1コリ10:31)。学生ならクラスの片隅でこの言葉に生き、働き人ならば仕事を通して神を礼拝するのです。子育てや家事や介護の中にも神の栄光は現される。福音を伝え、身近な人を愛し、試練の中で忍耐すること。また、病床にあっても、毎日を神を見上げて生き抜くことで、神の栄光は現されます。

   私たちは地の塩・世の光として生きるように召されています。私たちは一人ひとり違った人生を歩み、様々な所に遣わされています。そこで地の塩、世の光として生き、神の栄光を現すのです。私たち自身の歩みが覚束ないものだと感じたとしても、主イエスが私たちを地の塩・世の光と呼んで下さるのです。その希望に生かされ、既にそうあるものとされた所に徹して、この1年も与えられた使命に生きて参りたいと思います。