「天に上り、全能の父なる神の右に座したまえり」

使徒1章3〜11節、コロサイ3章1~4節

使徒信条はここまで、過去の出来事を扱ってきました。しかし、「全能の父なる神の右に座したまえり」という所では現在形が使われます。つまり、これは私たちが「今、ここで」生きている信仰のあり方を考える上で大事な言葉なのです。今回はこの内容を考えたいと思います。

Ⅰ. キリストの昇天の意味 (使1:3-11)

主イエスは復活後40日間、弟子たちと共に過ごされた後、唐突に天に上っていかれます。弟子たちはその時、イエス様が天に上られたことの意味がわからなかっただろうと思います。私たちも同じかもしれません。「天に上り」という使徒信条の言葉を、あまり深く考えない。けれども、キリストの昇天について考える時、実は意味深い出来事だったことがわかります。「天に上り」とは、主イエスが単に地上から姿を消しただけではなく、新しい時代の幕開けでした。この信仰告白には、私たちの思いを天に向け、まことの王であられるキリストを見つめ、従うようにという招きが込められています。

ルカは福音書と使徒の働きの二巻本を著しましたが、彼が伝えたい話は使徒1章ではまだ半分です。「イエスが行い始め、また教え始められた」(1:1)と書かれるのは、教会が主イエスの働きを受け継いだというメッセージが暗示されています。主イエスが天に上られたのは、聖霊が教会に下り、その力によってクリスチャンたちが世界中に福音を告げ知らせるためでした。主イエスは神の計画の舞台から退場して、後は何もされないのではありません。むしろ教会のかしらとして、天で働き続けておられます。

天におられる主イエスは、空間や時間に縛られず、私たち一人ひとりと親しく関わられます。教会堂の中だけではなく、あなたの部屋でも、学校でも、職場でも、病床でも、どこででも主イエスと親しい交わりを持てるのです。

Ⅱ. 神の右に座すキリストを見つめて生きる(コロ3:1-2)

次に、主イエスが天に上られたことは、主が世界の王座に就かれた出来事でした。コロサイ3章1節には、キリストが天で神の右に座についておられることが書かれています。キリストは王としてこの世界を治め、また大祭司として弱い私たちのためにとりなして下さいます (ロマ8:34)。

では、その神の右に座しておられるキリストを信じる、とはどういうことでしょうか。再び1節を見ましょう。「こういうわけで、あなたがたはキリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」。ここでいう「あなたがた」とは、クリスチャンのことです。さらに3節には、その「あなたがた」はすでに死んでいるとも言われている。これはどういうことか。その答は、少し前に書かれていました。「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです」(2:12)。ここに洗礼が象徴的に表わす意味が書かれています。クリスチャンは洗礼を受けるに当たり、神に背を向けていた古い自分に死に、神とともに生きる新しい自分に造り変えて頂くのです。ここで「ともに」という言葉が繰り返されるように、私たちは洗礼を通してキリストと一体とされました。それは言い換えれば、キリストの十字架と復活に、私自身があずかったと見なされているのです。

「上にあるものを求めなさい、思いなさい」と繰り返されているように、これがクリスチャンの基本的な生き方だとパウロは言います。ただ、それは具体的にどのような生き方なのか。その答は、2節後半に「地にあるものを思ってはなりません」とあります。地にあるものとは、私たちが主を知らずに生きていた時に、かつて求めていたものです。すなわち、淫らな行い、汚れ、情欲、悪い欲、そして貪欲(5節)。他にも怒り、憤り、悪意、ののしり、口から出る恥ずべきことば、偽り(8-9節)。上にあるものを思うとは、これらを捨てることです。むしろ、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を求めるのです(12節)。

天におられるキリストを見上げつつ、このお方を主と告白する時、生き方も自ずと変わってくるはずです。私たちが応答する先に、この世界に神の国が現れます。その意味で、キリストが天に上られたことは、この地上の世界が天に組み込まれる出来事でした。

ただ、これは自動的にできることではありません。意思を働かせて、心を変える必要があります。普段、私たちの心が向かっているのは何でしょうか。私たちはこの世のものではありませんが、世にあって生きています。ですから、地にあるものに関心が向くことも少なくありません。けれども、そんな私たちのために、今も大祭司キリストが天でとりなして下さっている。だから何度でも悔い改めて、神の右の座に着いておられるキリストを見つめ、この御方に従うのです。

Ⅲ. 隠されたいのちに生きる(コロ3:3-4)

3節後半では、そのクリスチャンの生き方についてこう言われます。「あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです」。この世では、キリスト信仰を持つことはほとんど評価されません。誰かから馬鹿にされたり、悔しい思いをすることもあります。でも、パウロは、「それは今、隠されている」というのです。

初代教会で初の殉教者になったステパノが石で打たれた時、彼だけが天で神の右に立たれるキリストを見たことを思い出します。私たちも信仰の戦いを経験する時、そのようなことを経験させられることがあるのではないでしょうか。苦難に遭う時、信仰のメガネを通して見る時に、なおもキリストがその状況を支配しておられることを仰ぎ見るのです。

キリストにある私たちのいのちは、主が再び来られる日まで隠されています。信仰を働かせた先に、理不尽な苦しみに会うかもしれません。パウロもこの手紙を書いた時、獄中にいたようです。ある見方をすれば、ただの変わった囚人にしか見えなかったでしょう。でも、彼は霊的な真理を握り、自分のいのちが神の内に隠されていることを知っていました。

また4節によれば、キリストがこの世界に来られる時、すべての人に、このお方こそ栄光に輝く王であることがわかります。その時に私たちもキリストと共に栄光の内に現れる希望があるのです。

それは将来のことですが、今の内から私たちのいのちはキリストとともに神の内に隠されています。再臨がいつかはわかりませんが、私たちはその時を目指して地上の旅路を歩みつつ、置かれた所で神の国を建て上げるのです。今はキリストが天に上られてから再臨を待つ間の期間です。聖霊の力を頂きつつ、私たちの心を天におられるキリストに向ける。古い罪に引っ張られそうになる時、すでに古い自分は死んでおり、キリストとともによみがえらされていることを思い出したい。何度でも悔い改め、大祭司のとりなしによって恵みのみ座に近づきましょう。