「われは再び来られるキリストを信ず」

テサロニケ人への手紙第一5章1-11節

何となく私たちは、この毎日の生活がいつまでも続くように思いがちかもしれません。しかし、聖書は「終わりの日」について語り、その終末に至る見通しを持ってこそ、今日一日を精一杯生きようと励む勇気が与えられるといいます。

Ⅰ. 盗人のように来る主の日 v1-3

パウロはテサロニケで伝道した際、迫害が起こってすぐ他の町に逃げなければならなくなりました。その後、この教会の人々は苦難の中でも堅く信仰に立ち、パウロはそれを喜びつつ、当時の教会の課題を意識して手紙を書き進めます。中でも、ここでは「終わりの日」に関するテーマが扱われます。ところで、この終末についてのイメージは、世の中でも様々な形で知られています。「ノストラダムスの大予言」に始まり、様々な新興宗教において、あと何年でこれが起こるという風に人々の不安を煽り、自分たちの組織への忠誠をかきたてます。また、教会も時に行き過ぎた主張をしてしまうことがあります。具体的に「何年に世界の終りが来る」というようなことを言えば、それは明らかに誤りでしょう。ただ、「初めて聞いた」という新鮮さのゆえに、人々が惹きつけられてしまうこともあり得ます。

聖書は何年後に世の終わりが来るのかを明示しませんが、その日は確かに来ると語ります。具体的な日時がいつかはわかりませんが、しるしによって見分け、またいつ来ても良いように備えておくようにと言うのです。パウロは、その日がどのように訪れるのか、「盗人」と「陣痛」という2つの喩えを持ち出します。

それはこっそりと、しかし確実にやってきます。しかも、それは「人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき」だといいます(ちなみに、当時これはローマ帝国の宣伝文句の一つであり、人々はローマこそ平和と繁栄を与えてくれると信じていました)。また興味深いことに、この「言っている」という言葉には、現在形が使われています。つまり、再臨が起こるその時まで、彼らはそう言っているというのです。その時まで、この人々は自分の生き方に、何の問題意識も感じません。しかし、キリストの再臨や最後の審判は、突然、避けられない形で起こるというのです。

Ⅱ. いかに主の日を迎えるか  v4-8

ただ、その主の日を思う時、自分は大丈夫だろうか…と心配になるかもしれません。けれども、パウロはテサロニケの人々にこう記します。「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」(4節)。クリスチャンにとっても、主の日は突然やって来ますが、用意ができている。それはその人が暗闇ではなく、光の中にいるからです。眠っていないで目覚めているからです。再臨の主は、すべての人に突然訪れるのではありません。突如襲われるのは、暗闇の中にいる場合だけです。「今日も安全だ、平和だ」と世が与えるものに安心しているから、主の日は突然襲うのです。

しかし、5節でこう記されます。「あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」。暗闇がこの世を表しているとすれば、光は神の性質です。クリスチャンは神によって新しく生まれた時に、既に光とされています。その上で、繰り返し「身を慎んでいましょう」と勧められます。この言葉は眠ることとは反対に、苦難に耐え、自分の使命を果たすことを指します。しかし、それは単なる我慢の生活をするというよりも、再臨の際にもたらされる恵みを待ち望む生き方でしょう。

終わりの日の前兆は、既に起こりつつあります。だからこそ、救いの完成が近いことを望み見て、目を覚ましていたいと思います。ただ、それは一人でできるものではなく、パウロはこのように勧めます。「ですからあなたがたは、現に行っているとおり、互いに励まし合い、互いを高め合いなさい」(11節)。パウロが注意を促さなければならなかったのは、光の子とされた私たちも、時にまどろみ、眠り込んでしまう弱さがあるからです。そこでは「気合で起きろ!」という根性論ではなく、兄弟姉妹の交わりと励ましが必要不可欠なのです。

コロナ禍で導入されたオンライン礼拝は、この時代における恵みの手段として、新しい可能性を教えてくれました。ただ、それだけでは限界があると感じるのが、「交わりや励まし合い」ではないでしょうか。私たちは、一人で信仰生活を送るのではありません。教会に連なり、神の家族とされた共同体として、天を目指して共に地上を旅しているのです。時にまどろんでしまうからこそ、交わりがある。眠りそうになる時に、互いに起こし合い、主の再臨を待ち望む交わりを建て上げていきたいと思います。

Ⅲ. 救われた者への約束  v9-10

ただ、それでも最後のさばきを恐ろしく思うかもしれません。その時こそ、改めて十字架の贖いの恵みを思い出したいのです。「神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです」 (9節)。確かに、最後の審判において、私たちは人生の総決算をすることになります。未解決のまま残された罪の問題は、その時に問われます。その意味で、私たちは神を恐れなければならないし、罪に気付かされた時に悔い改めたいと思います。ただ、キリストが十字架の上で言われた言葉は「完了した」でした。究極的な意味で、神の裁きはもう済んでいる。贖いのみわざは完了しているのです。

世界のさばき主は、私たちの贖いを成し遂げた救い主なるお方でもあります。キリストは、他ならぬ私たちの救いのために来られる。だからこそ、どんな困難と戦いの中にあっても、そのさばき主が来られるのを待てるのです。キリストの再臨の日は、信仰者にとって人生最高の日です。この信仰に根ざす希望があるから、私たちは忍耐を持って愛に生きることができるのです。キリストの再臨は、信仰者にとって喜びと慰めを与えるメッセージです。私たちはこの世にあっては旅人、寄留者です。私たちは再臨の時まで、主の日ごとに集められ、再び遣わされていきます。この招きと派遣の繰り返しが、やがて来るべき主の御前に集う日まで続いていくのです。

この世に問題が山積みなのは、この世界が未完成だからです。私たちは不条理な現実を見聞きし、あるいは直面し「主よ、なぜですか」と問います。その時こそ、「主は、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とをさばき給わん」という言葉を思い出したい。私たちを悩ませる暗闇の力は、決して永遠に続くものではありません。それらは終わりの日に訪れる、神の裁きの前に打ち砕かれます。聖書の最後に書かれた黙示録では、神ご自身が私たちとともに住み、その目から涙をことごとく拭い取って下さる約束があります。もはや死はなく、悲しみも、叫びも苦しみもない。世界が新しくされる時がやがて訪れるのです。

「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)

そのように語られた主イエスを見つめて、身を慎んで歩みたいと願います。