「われは聖霊なる神を信ず」

ヨハネの福音書16章7-15節

使徒信条は「われは聖霊を信ず」から第三部に入ります。実はこの聖霊に関わる所こそ、使徒信条の内容が私たちの身近になる所でしょう。聖霊こそ私たちの信仰生活を生きたものにする、鍵となるお方だからです。

. 主イエスの代わりに来られた「助け主」 v7-11

最後の晩餐の場面であるこの箇所で、主イエスは弟子たちに今後起こることを伝えます。これから主イエスが去られることを聞いた弟子たちは悲しみました。しかし、主は「わたしが去って行くことは、あなたがたの益になる」と言われます(7節)。その理由は、弟子たちに「助け主」が遣わされるから。このお方こそ、聖霊なる神です。聖霊は主イエスの働きのバトンを直接引き継ぐお方。この聖霊が、弟子たちに与えられるのです。

聖書を読んでいると、主イエスの活動していた時に生きていれば、よりリアルな信仰を持てたのでは、と思うことがあります。直にみ言葉を聞き、奇跡を目の当たりにすれば、もっと確信が得られ、大胆に信仰者として生きられたのではないかと。ただ、その想定とは裏腹に、弟子たちはまことに頼りないものでした。福音書だけを読めば、この弟子たちだけが残されても、自然消滅しそうです。けれども、主イエスが去られてから、弟子たちに根本的な変化が起こりました。彼らは死も恐れずに大胆に証しし、主イエスと同じわざを行い、エルサレムから地の果てまで福音の証人となるのです。一体何があったのか…?その理由は、もうひとりの助け主、聖霊の働き以外に考えられません。

この使徒たちから福音のバトンを渡された代々のクリスチャンは、同じ聖霊によって福音に生きることができました。今の時代に生きる私たちにも、「助け主」が与えられています。もしイエスを主と告白し、クリスチャンとなったならば、例外なく聖霊はその人の内に住んでおられる。復活したキリストは今、天で神の右に座っておられますが、聖霊はこのキリストを私たちにつなぎとめ、神の子として生きるべく私たちを助けて下さいます。

この聖霊の働きは、教会の外と内の人々に対し、大きく2つに分けられます。まず、聖霊は世に対して、罪を明らかにします。硬い心を柔らかくし、自分にも救い主が必要であることを教えます。さらに信じてからも、聖霊は神の愛を心に注ぎ、キリストを信じる喜び、驚くばかりの恵みを教えて下さいます。

聖霊が教会に下った日ペンテコステのことを思い出したいと思います。聖霊が弟子たちに下り、代表してペテロが人々に説教した時、人々はどうしたでしょうか。それまで彼らは主イエスを十字架につけた自分のあり方について、何の問題も感じていませんでした。けれども、ペテロの説教で心が刺された人々は、「私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねます。彼らが真理を受け入れたのは、ペテロの雄弁によるものではありません。およそ悔い改めるはずのない人々が、自ら罪を認める。これが聖霊の働きです。それがなければ、私たちの伝道や証は実りなきものとなります。罪に対して盲目な私たちは、御霊の働きによってしか救われません。だからこそ証においては、御霊の助けが必要です。御霊が私の心を照らし、聞く人の心を照らさなければ宣教は空しいものとなります。逆に、足りない所があったとしても、御霊の助けがあれば大事なことは伝わるのです。

. 弟子たちを導く真理の御霊 v12-15

この最後の晩餐の後、弟子たちは主イエスを置いて逃げました。こんな彼らですから、精神的な支柱である主イエスが取り去られれば、全てが終わりかねない状況でした。最後の晩餐で大事なメッセージが語られましたが、彼らは大事なことを理解しきれていない状況でした。けれども、主イエスの内に焦りは見られず、それでよしとしているのです。それは聖霊がこの弟子たちを全ての真理に導くと信じられていたからです。

聖霊の働きがなければ、キリストの十字架の意味は誰にも知られないまま、歴史の中に埋もれていったでしょう。言い換えれば、教会はもちろん、クリスチャンなど一人も生まれなかったのです。ある神学者は「クリスチャンの存在は、世界の創造や復活よりも小さな奇跡ではない」と語りました。聖霊が私たちの死んだ心を新しく生まれさせ、私たちを造り変えて下さること。それは紛れもなく神の奇跡です。私たちは罪によって、自力で神の元に戻れません。しかし、聖霊がその心を照らし、真理に導き入れて下さったので、私たちは信仰を持つことができ、教会ができたのです。

代々の教会は「聖霊よ、来たりませ」と祈り求めてきました。私たちも御霊の働きを求める姿勢が必要です。受け身であることは確かですが、御霊は自由意志も尊重しながら、私たちの中で働かれます。御霊を悲しませてはならない、とパウロはいいました。御霊は私たちにキリストを見よと指し示します。その時に、自分の考えにこだわり、罪にとどまるならば、成長することはできません。罪の内に安住させ、「そのままでいいよ」というのは偽りの霊、あるいは古い自分の声です。

あるいは罪との戦いに敗北を重ねる中で、自分が嫌になったり、「結局、聖書の命令に従うなんてことはできないのだ」と開き直ることもあるかもしれません。しかし、その弱い私たちの中に聖霊が住んで下さることによって、キリストを生かした同じ神の力を受ける事ができるのです。罪に傾いた自分だから、罪を犯して仕方がないのか。そうではありません。主を信じる者に与えられた聖霊によって、罪の力に打ち勝つことができるのです。

もしあなたが神の言葉を読みたい思いに駆られたら、それはあなたの内に聖霊が働いておられる証拠です。祈るように招かれているように思われたら、手を止めて、御霊が求めておられることをしましょう。御霊の励ましに敏感でありたいと思います。聖霊に従えば従うほど、聖霊はそれだけ多くご自分の願いを示し、私たちを励ましてくださいます。私たちの力の源は聖霊にあって、従う力すら神から頂けることを覚えて、「自分の内によいものはありません。だから助けて下さい!」と祈り求めたい。そして、聖霊の促しによって神に従う一歩を踏み出すものとされたいと願います。