「われは聖なる公同の教会を信ず」

ペテロの手紙第一2章1-10節

私たちは教会に集う中で、様々な経験をします。いまだに罪の残り滓を持ちながら、やがて来る完成の日を目指しつつ、共に地上を旅する群れ。その私たちが「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白するのには、どのような意味があるでしょうか。

Ⅰ. 聖なる教会を目指して v1-4a

最初に考えたいのは、「聖なる教会」という言葉です。聖徒とされた私たちは、なおも聖なる者とされていく途上にあります。この手紙を書いたペテロも、成長し続けた人でした。この手紙は、晩年に差し掛かったペテロが、困難な時代に生きるキリスト者に励ましを与えるために書かれました。

キリスト者の成長を阻害する問題として、ペテロは「悪意、偽り、偽善やねたみ、悪口」(1節)を挙げます。これらは人間関係を壊す罪であり、それらは捨てられなければなりません。むしろ、ペテロは成長のために、「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい」(2節)と言います。霊の乳とは、みことばはもちろん、それを中心とした交わり、礼拝、またその実践など霊的な養い全般が含まれるでしょう。また、「救いを得るためです」とありますが、これは救いの恵みを豊かに体験していくことです。みことばに教えられ、自己中心な生き方が、隣人を愛する者に変えられていくのです。

キリスト者ならば、この実りを既にいくらか知っているでしょう。「あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました」(3節)。

この引用は詩篇34篇からですが、これを作ったダビデは敵に追われる試練の中にありました。でも、そこで不思議な神の守りがあり、人間的にはみじめな状況でも、そこで主のいつくしみ深さを味わっていました。ペテロはこのダビデの詩篇を思い出しながら、教会が困難の中にあっても、主のいつくしみ深さを味わえると記したのでしょう。このいつくしみ深い主を知っているあなたがただからこそ、「主のもとに来なさい」と呼びかけるのです。

 このように勧めるペテロも多くの失敗をしながら、主のもとに来続けることを通して、再び立たされて教会のリーダーになっていきました。ここにかつての我が強いペテロの姿はなく、むしろ群れを思う牧者の姿があります。ペテロは霊の乳を慕い求め続け、主のもとに行き続けた先に、このような成熟したリーダーとなったのです。そして、困難の中にある仲間にも、その恵みを味わってほしいと願うのです。

 主のもとに来なさい。これは私たちに対する呼びかけでもあります。既に、主のいつくしみ深さをいくらか味わっているかもしれません。ただ、それは入口であって、もっと豊かな喜びの世界があるのです。既に主イエスを心にお招きしつつも、その王座にいつもお迎えしていないかもしれません。でも、そこを明け渡してこそ、自由にされます。これは一回限りではなく、日々なされる決断です。成長を妨げる罪を捨て、霊の乳を求め、約束された祝福に預かりたいと思います。

Ⅱ. キリストを礎とする公同の教会 v4b-10

 次に、「公同の教会」について考えてみましょう。主のもとに来る人は、キリストをかしらとする教会に連なります(5節)。この霊の家は一つの建物です。地上の教会は、その地域ごとに沢山ありますが、霊的な現実においては一つです。教会の規模の大小を問わず、各地に立てられた教会が、キリストの教会を代表しています。北栄教会は札幌・新琴似にあるキリスト教会として存在しています。他の教会も同じです。そのため、地域にある教会同士の協力もなされる訳です。4節後半ではキリストが生ける石に喩えられ、その礎の上に霊の家が築かれる描写があります。教会の土台はキリストです。キリスト者・各教会は単なる人間的な親しさというよりも、同じ信仰によってつながっているのです。

 一方、キリスト教会と一口に言っても、様々な教団・教派がありますし、各教会にそれぞれの歴史や特色があります。この北栄教会も66年前に生まれ、OMF宣教師たちの働きの実として、今この所に建てられています。私たちも今、この時代・この場所に置かれているのは偶然ではありません。それぞれの時代に課題があり、委ねられている使命があります。主の再び来られる日まで、信仰の灯を絶やさずに、その務めを果たしたいと思います。また、主のもとに来た人々には多様性があります。それぞれに歳も性格も違う私たちですが、神の目に一つとされた教会として見られている。私たちもその視点を持つことで、自分と神様という縦の関係だけでなく、兄弟姉妹たちとの横の関係も大切に思うようになるでしょう。一人ひとりが、同じ霊の家を築き上げているメンバーだからです。

ちなみに、「主のもとに来る」「築き上げられる」という動詞には、現在形が使われています。つまり、私たちが主のもとに来続けることによって、霊の家が築かれつつある。そこで思い浮かぶのが、主の教会は現在工事中だということです。だからこそ問題も起こる訳ですが、それでも主を信じて、終わりの日の完成を目指す方向を共に向き、励まし合っていきたいのです。

 一方、キリストに対する見方は、信仰の有無によって二分されます。5節で「主は人には捨てられた」とあり、8節では「つまづきの石、妨げの岩」とあります。福音を語ればみんな救われれば良いのですが、そうでもない。生まれつきの私たちは皆そうだったのです。だから、これを信じられるようになっていること、主がいつくしみ深い方であることを味わっているのは、実は当然ではない恵みです。また、8節には「つまづくのは、みことばに従わないから」ともあります。ここで従う意思が問われています。つまり心を開いて、従うつもりで向き合うなら、つまづきを回避できる。信じてみたら「何だ、こういうことか」と辻褄が合うのです。また、このつまづきが聖書に記されているのは、ある意味で慰めです。福音を伝えようとする時、拒絶や無関心の態度に出会うことは少なくない。思わしくない反応に出会う時、私たちの心はくじけそうになります。けれども、その状況も神の主権の中にあり、キリストに信頼する者は「決して失望させられることがない」(6節)のです。

 それは、9節からのキリスト者に与えられた立場にも現されています。主のもとに来た人は、神に選ばれている人達です。神の王子・王女ともされ、祭司としての立場も頂きました。一人ひとりが神に選ばれ、愛された者として、聖なるみおしえに従い、神に喜ばれる霊のいけにえをささげるのです。それを通して、神の栄誉が世に証されていく。

 神に選ばれ、愛されている者は、罪を捨てて霊の乳を頂く中で、一つの家・聖なる公同の教会に築き上げられます。「われは聖なる公同の教会を信ず」と告白することは、神によって選び分かたれた私たちが、互いを建て上げながら、成長を目指して共に主を見上げることです。

教会は、持ち主がキリストである事実に立ち返るなら、神によって変革されていく。キリストという確かな土台に預かる私たちです。だからこそ、この世にはない、天国の前味といえる喜びも平安もここにある。主の慈しみ深さを語り合い、神の家族とされているがゆえに、共に喜び、共に悲しむ。そんな幸いな交わりを、これからも建て上げて参りましょう。