「御霊が語らせるままに」 2019年9月

「御霊が語らせるままに」       

2019年9

使徒の働き2章1-13節

牧師  中西 健彦

皆さんは、「聖霊なる神」について普段どれほど意識しているでしょうか。私は幼い頃から教会に通っていましたが、かつて「聖霊がどのようなお方か」はほとんど知りませんでした。教会で「聖霊」という言葉を聞いたことがあっても、何かすごい霊的エネルギーを想像したり、恍惚状態になる様子を「聖霊に満たされている」と言うのだろうか…と誤解していた時期もあります。その時の私にとって、聖霊とはよくわからない、何だか得体の知れないものでした。でも聖書を読むならば、聖霊はクリスチャンにとって生きた信仰生活の鍵といえることがわかってきます。

もし、聖霊がおられなければどうなるでしょうか。まず、私たちが手にしている聖書はありません。また、生まれつき罪ゆえに盲目な私たちは、誰一人クリスチャンになることができない。だとすると、教会もない。私たちを縛る罪から抜け出すことは自力では不可能なので、聖霊の助けがなければ信仰者としての歩みは常に敗北です。しかし感謝すべきことに、この聖霊はクリスチャンであれば全ての人に与えられており、御霊はクリスチャンに神の御心を悟らせ、みことばに従う力を与えます。聖霊は教会を生み出し、私たちは主の働きを担うものとされる。

聖書の歴史の中で、三位一体の神は様々な仕方で働いてこられました。旧約を見ると、父なる神が直接アブラハムなどに語りかけ、また福音書を読めば御子イエスのみわざを知ることができます。でも今、主イエスに直接会うことはできません。普段、天から声が聞こえるわけでもない。それでは、現在は神が働いていないのかと言われるとそうではなくて、ペンテコステ以降は聖霊なる神がクリスチャンの内に宿り、働いておられるのです。今回はこのペンテコステの出来事を学び、聖霊がどのようなお方かを考えたいと思います。

 

Ⅰ. 時満ちて、聖霊下る v1-4

1節には「五旬節の日になって」とあります。五旬節はユダヤの三大祭の一つですが、町も賑わう中で主の弟子たちは同じ場所に集まり、主の約束を待ち望んでいました。その時、ついに聖霊が下ってこられたのです。「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」(2:2)。風と火は、聖書で神が現れる時に伴う自然現象として知られます。この初代教会の誕生の時も、誰の目にもわかる仕方で聖霊が弟子たちの所に下ってこられたのです。「天から激しい風が吹いてきたような響き」という表現から、それは天上の主イエスが送った天からの風、聖霊の象徴だといえるでしょう。「風」は旧約において「息」とも「霊」とも近い概念ですが、まさに神のいのちの息吹ともいえる一陣の風が教会に吹いてきた。また、「炎のような舌」は、バプテスマのヨハネが予告していた、聖霊と火とのバプテスマを授けるという主イエスの働きでした。この「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった」というのは、どのような状況か想像できるでしょうか。旧約における聖霊の描写は、主に特別の奉仕のために特定の個人に下るものでした。でも、このペンテコステの時、聖霊は弟子たち一人一人にまんべんなく下ったということです。弟子たちは御霊を受けて、一人一人が神の言葉を語る預言者となりました。

これは私たちにも言えます。誰か一握りのスーパースターが神の働きをするというよりも、信仰者にはもれなく御霊が与えられて、私たち一人一人を証人として立てて下さるのです。私たちにはそれぞれ、自分を信仰に導いてくれた人や、クリスチャンのモデルと言えるような尊敬する人がいるのではないでしょうか。「あの先生だったら、あの人だったら、主のわざを行えるだろう。でも、凡人の自分には無理だ」と思うことがあるかもしれません。でも、聖霊は一部の特別な人だけではなくて、クリスチャン全員に与えられています。もしかすると、その実感がないかもしれません。でも、パウロは1コリント12:3で「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です』と言うことはできません」と語ります。あなたがイエスを救い主だと告白する時、そこには確かに聖霊が働いておられるのです。また、祈るように、御言葉を求めるように促され、あるいは罪に気付かされて悔い改める時、本当の意味でこのお方に信頼する時、それは超自然的な現象が伴わなかったとしても、確かに聖霊が働いておられるのです。

聖霊に満たされるとは、単に興奮状態になることではありません。それは、主イエスの語った福音、神の言葉を語ることと関係します。ペンテコステは「語ること」における革命でした。ほんの2ヶ月弱前、主イエスが十字架にかかられる前の夜に、ペテロは真夜中の女中さえ恐れて語ることができませんでした。また、復活された主が弟子たちの前に現れるまで、彼らは迫害を恐れて、部屋に鍵をかけて縮こまっていた。それが今、群衆の前で主イエスこそが救い主だとはっきり宣言し、人々を救いへと招くようになっていく。この弟子たちの変革こそ、聖霊の力強い働きを物語っています。神のわざを語る舌を持たざる人が、今や聖霊によって、御霊が語らせるままに大胆に語るのです。

Ⅱ. 聖霊によって、神のみわざを語る弟子たち v5-13

ペンテコステの出来事は、内輪だけにとどまりませんでした。騒ぎを聞きつけて集まった多くの人々は、自国のことばで語る弟子たちに遭遇し、あっけにとられました。9節から11節の国の名前は、当時の地中海世界で知られたあらゆる国々を指します。この五旬節の奇跡は、その後に続く世界宣教を予感させる出来事でした。この出来事を経験した人々の反応には、2つのパターンがありました。1つ目は、「いったい、これはどうしたことか」と非常な驚きに包まれた人々。もう一つは、「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのだ」と自分の理解に合わせて合理的に解釈し、嘲る人々です。様々な言語が入り乱れている様は、酔っぱらいが喋っているように聞こえたのかもしれません。聞く人によって「神の大きな御業」が「酔っぱらいのたわごと」に聞こえてしまう。そのような伝道の困難がここから既に示されています。キリストの福音を伝えようとする時に、相手が示す最初の反応は「気がおかしいのではないか」という場合が起こり得るのです。ですから、私たちの伝道においても、嘲られたり、まともに受け取ってもらえないこともある。でも、福音を丁寧に伝え続ける時に、心が開かれ、救いに導かれる人も起こされるはずです。現に、この後のペテロの説教によって3000人もの人が救われたのです。

福音書に記される弟子たちは、主イエスの言葉を理解できず、自分の思い込みに囚われていましたが、まず御霊はすべての真理に私たちを導いてくださるのです。聖書を悟らせ、神の御心を教えて下さるこの聖霊の働きに信頼したいと思います。聖霊は教会の一人一人の内に宿り、神の大きなみわざを世界に向けて宣教させます。「伝道」と聞くと、尻込みしそうになるかもしれません。でも、弱い者を強くし、世々の聖徒を生かした聖霊が、主を信じるあなたの内に住んでおられる事実を再び思い出して頂きたいのです。元は頼りなかった弟子たちが、御霊の語らせるままに福音を語り、それが2000年の時を経て私たちにも届いている。一人一人が復活の主の証人とされているという御言葉の約束を覚えつつ、遣わされた先で証をしていきたいと思います。