「私たちはどうしたらよいでしょうか」

「私たちはどうしたらよいでしょうか」       

2019年10月

使徒の働き2章31-47節

牧師  中西 健彦

 

ドイツの神学者ボンヘッファーの著書「キリストに従う」には、悔い改め抜きの恵みを「安価な恵み」と記しています。もちろん十字架による罪の赦しは福音の中心ですが、かといって「どうせ赦されるのだから何をやっても良い」と開き直っていないか…とボンヘッファーは鋭く問いかけるのです。キリストの福音の中には、罪の赦しとともにその生き方を変えられる「悔い改め」も含んでいます。使徒の働き2章37-41節では、使徒ペテロの説教によって心を刺された人々が悔い改める出来事が描かれています。今回はここから、「私たちが救われることの中に、自らの罪を捨て、神に従って生きるという根本的な方向転換が伴う」ことを学びたいと思います。

Ⅰ. 罪に悩む人々に福音がもたらすもの v37-39

ペンテコステの日、ペテロはエルサレムの人々に大胆に語り、「神が主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(2:33,36)と結びました。彼らには「してはならないことをしてしまった」という恐れが生じ、絶望的な罪の自覚が心に芽生えました。これも聖霊の働きでした。このように一人一人が自らの罪を認めたことは、初代教会の一つの特徴だったと言えるでしょう。誰も自らの罪に直面することなく、クリスチャンになることはできません。

この時の聴衆は、ある程度、主イエスについて知っていたでしょう。彼らの中には、民の指導者たちのやり方を快く思わない人もいれば、煽られて「十字架につけろ」と叫んだ人もいたかと思われます。ただ、共通してそのことの責任は自分にないと思っていた。しかし、ペテロの説教を通して彼らの良心が呼び覚まされ、「自分こそがイエスを十字架にかけた」という罪の自覚が生じたのでした。

今日、私たちが十字架のメッセージを聞く時も同じ応答が起こり得ます。それまで何とも思っていなかった自分の生き方を顧みさせられ、主を無視して、このお方を悲しませる罪を重ねてきたことに気付かされる。心を刺されるのです。それは苦しい経験ですが、恵みでもあります。これなしに、キリストが自分の罪のために死なれた意味はわかりません。霊的に盲目な私たちの目が開かれ、自分の罪に気付かされること、それは聖霊のみが可能にする奇跡です。

人々は「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねました。皆さんは、このように主の前に叫んだことがあるでしょうか。それは全てのクリスチャンが経験することです。私たちの信仰生活は、これまで生きてきた人生をそのまま延長させる、プラスアルファのようなものではありません。主イエスの十字架を知ることは、私たちの生き方を全く変えるものです。御霊によって取り扱われた人々は、自分の罪に絶望し、それゆえに自分のこれからの歩みを神に委ねるのです。

ペテロは、そのような聴衆に語ります。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」(2:38)。悔い改めとは、単なる後悔や良心の呵責を覚えるだけではありません。罪を犯して神の御顔を避けていた自分が、これまで犯してきた罪を悲しみ、それを離れて神様の方に向き直る「根本的な方向転換」が起こるのです。悔い改めはしてもしなくても、どちらでもいいものではありません。私たちが悔い改める時に、赦しがもたらされる。その意味で、悔い改めは真の意味で前向きな生き方であって、主を信じるという時の大事な要素であることを覚えたいと思います。

また、その悔い改めは「それぞれ」と言われていますから、一人一人が神の前でなすべきものです。「あの人よりはマシだ」とか「皆がやってる」と言って自分の罪に向き合おうとしない弱さが、私たちにはあります。でも、悔い改めは神と自分という個人的な関係の中で行われるものです。罪に気付かされた時、「あの人はどうですか?」と尋ねる前に、まず自分が悔い改めるものでありたいと思います。また、悔い改めはクリスチャンになってからも行う必要があるでしょう。自分の罪に気付かされる度に、神の前に再び新たな歩みを踏み出し続けるものでありたいと思います。

ここでのペテロの勧めは、そのまま私たちにも同じことが言えます。「この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです」(2:39)。「遠くにいるすべての人々」とは時代も距離も隔たった私たちのことであって、教会とは神が選んで呼び集めた人の集まりです。教会には年齢も立場も異なる人が集いますが、その共通点は「神が救いに招き入れて下さった」ということです。私たちはみな、この救いの恵みを頂くために神に招かれているのです。

Ⅱ. ペテロの説教と聴衆の反応 v40-41

ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをしました。彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けました。彼らはその場の雰囲気で、何となくクリスチャンになったのではありません。みことばへの応答として、洗礼を受けたのです。

そのペテロの語った内容は、一言で言えば「この曲がった時代から救われなさい」ということでした。ある意味で、宣教の主題はいつもこの一言に尽きます。ただ、説教者にとっても罪を語ることには緊張感が伴い、そのメッセージを薄める誘惑があります。生まれつきの人は自分のあり方が問われることを嫌い、自分が気持ち良くなる言葉を聞きたいと思います。だから、聴衆の耳に心地の良い、楽しいことだけを語りたいという誘惑にかられるのです。しかし、みことばが語られる時、そこには世の価値観に対抗する緊張感が必然的に生じます。もちろん、みことばによって真の慰めや心の平安を頂くこともあるでしょう。でも、そのことばかりで、生き方が問われない現状を肯定するだけの説教は、偽りの福音です。説教はその性質から言って、安心して聞けるものではないのです。みことばは私たちを根本から改革し、隠れた罪をあぶり出し、悔い改めへと促すからです。それは時に痛みも伴います。でも重篤な病気がその治療なしで治らないのと同じように、悔い改めを通らなければ人が救われることはない。この悔い改めの福音が語られる所が教会なのです。

私たちが救われることの中には、それまでの自分の罪と訣別し、神に対して生きるという根本的な方向転換、悔い改めが伴います。もし、あなたがクリスチャンならば、あなたはもはや自分のものではありません。神があなたを造り、あなたを買い取られたのです。クリスチャンは自分の罪を悲しみ、「私はどうしたらよいでしょうか」と叫んだ経験を持つ人です。幸いなことに、その罪に対するさばきは十字架によって取り除かれましたが、私たちが同じように罪の中にとどまっているならば、恵みをないがしろにしていることになります。本来の恵みが「安価な恵み」に成り下がっていることはないでしょうか。「この曲がった時代から救われなさい」とペテロが語るように、その恵みの招きに答えて私たちの生き方を軌道修正させて頂きたいと思います。