「教会が専念すべきもの」

「教会が専念すべきもの」       

2019年11月

使徒の働き2章42節

牧師  中西 健彦

これまで私は9つの教会に通った経験があります。それぞれの教会によって集まる人々も雰囲気も異なっていました。開拓して間もない教会、若者伝道に力を入れる教会、宣教師の先生が牧会している教会。20名ほどの教会もあれば、400名の教会に集ったこともあります。私はその多種多様な教会に行く中で「教会とは一体何か、教会の中心的な活動は何か」を考えさせられました。その問いに真っ向から答えるみことばの一つが今回扱う箇所であり、今年度の年間聖句でもある使徒2:42です。今回は、このみことばから「教会が専念すべき事は何か」を考えたいと思います。

42節は「彼らは」という言葉で始まっていますが、この教会のメンバーはどのような人々だったでしょうか。初代教会の人々は、自らの罪を認め、悔い改めてキリストを信じた一人一人でした。クリスチャンとは、自らの内にある罪への傾きと霊的な貧しさを知っており、だからこそ自分には、神の恵みとキリストの救いが必要だと自覚している人たちのことです。この人々は普段何をしていたかというと、「いつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」(42節)とあります。ここには4つの動詞があるように思われますが、原文では「専念していた」という一つの動詞しかありません。教会が専念すべき本務があることを、聖書は語るのです。それが「使徒たちの教え、交わり、パン裂き、祈り」でした。まず、教会が専念していたことは「使徒たちの教えを守る」ということでした。初代教会のメンバーは、かつての自分本位の生き方から方向転換した人々でした。とはいえ、人間にはかつての習慣が染み付いているため、昔の生き方に戻ることもあります。ですから、彼らは使徒たちの教えを学び、実際にそれを守る必要があったのです。 「使徒たちの教え」とは、私たちが手にしているこの聖書に書かれていることと同じ内容です。みことばは悔い改めた者がどう生きれば良いのかが明確に記された、私たちが拠って立つべきものです。

また、教会は単に気が合う人たちの集まりではありません。ここで「使徒たちの教え」が「交わり」より先に来ていることに注目して下さい。教会は共通の土台として、まずみことばという基準を大事にするのです。逆に、交わりがみことばより優先されるならば、ともすれば基準がない「何でもあり」の人間的な集団になってしまいます。みことばの真理から離れた信仰や愛といった発想は聖書にありません。私たちの歩みはどうでしょうか。日々迫られる選択において、世の価値観に流され、自分の感覚で判断することはないでしょうか。いつも聖書の基準に従って生き、それを求めているでしょうか。人間的な熱心さえあれば、何をやっても良いのではありません。

初代教会の人々は、私たちを真に生かす神のみことばを聞き、その教えに従って生きる機会を求めていた。そのみことばが私たちの生き方にメスを入れる時、そこには痛みもありますが、その中にこそ真の生き方があることを彼らは確信していたのです。今日も同じように、みことばは私たちの道を照らし、主とともに生きる幸いな歩みを教えています。歳を重ねるごとに、その恵みにおいて成長しているでしょうか。聖書に対する、それぞれの向き合い方を問われ直したいと思います。

次に、2つ目の「交わり」について考えたいと思います。この言葉は幅広い内容を持つ言葉なので、自分が好む理解をしやすい言葉でしょう。原語ではコイノーニアといいますが、その中心的な意味は「何かを共有すること、あるいは分かち合うこと」です。それは単に仲良くお茶を飲んで世間話をするという事ではなくて、主から与えられた恵みを共有することです。具体的には、持ち物・時間・祈祷課題・みことば・試練などを共有する。かつて赤の他人だった人々が、今や神の家族として互いのためにとりなし、必要なものを与え合う。仲間の困窮を満たすためならば自ら犠牲を払う、そのような身内の感覚がある。また、主にある使命を共有する戦友として生きることの全てを含む言葉なのです。

ちなみに、この教会が専念していた4つの事柄はそれぞれが独立しているというよりも、原文では「使徒たちの教えと交わり」「パン裂きと祈り」という2つずつのまとまりになっています。それを考えても、使徒の教えと交わりは切り離すことができません。この交わりはみことばを学んで従うことを大事にした結果として、聖霊がもたらして下さるものです。クリスチャンはそれぞれ同じ一人の主を信じ、このお方に従うために、継続的に交わりを持つ。その意味で、単に人間的な親しさというモノサシで、交わりを測ることはできません。私たちが互いに向き合うよりも、同じ主を見つめ、キリストの方へ向かって歩む。その先に生み出されるものが「交わり」なのです。

教会が専念すべき3つ目の事は「パン裂き」です。聖餐式は主イエスが最後の晩餐の席で命じられた事でしたから、初代教会で大切にされたに違いありません。北栄教会では月一度聖餐にあずかることになっていますが、皆さんはこの聖餐式にどのような思いで臨んでおられるでしょうか。

聖餐は交わりの究極的な表れであり、共にキリストの血にあずかっていることを確認するものでした。それは初代教会から連綿と続く歴史の中で実践されてきた教会のしるしです。聖餐式はただパンとぶどう酒を頂くだけでなく、それらが象徴する、主の身体が十字架で裂かれ、私たちの身代わりとなって血潮が流されたことを思い出す時です。それによって、自分の罪が赦され、神の怒りから救われている事実を思い起こす。また、自分が神の家族とされていることを確認する。

そのように聖餐とは、いわば「救いのドラマの再演」ともいうべき「目に見える福音」なのです。洗礼は一度きりですが、聖餐は生きている限り何度でも繰り返されます。私たちは色々なことを忘れやすいものですが、でもこの十字架の贖いは何があっても忘れてはならないもの、だからこそ繰り返し思い起こすべき恵みなのです。その意味で聖餐は、私たちが救われていることを教えてくれます。また、終わりの日に天で用意されている栄光に満ちた祝宴を指し示すものでもあります。その意味で、聖餐は天国の先取りでもあります。

最後に、4つ目の「祈り」です。弟子たちは個人においても、家庭集会でも、神殿における礼拝でも、祈りが大事にされていた様子が見受けられます。先ほど、4つの要素が2つずつセットだと説明しましたが、この祈りもパン裂きとセットです。共にキリストの恵みに預かった者として、ともに祈るということは自然なことです。教会では、共通の祈り課題があります。例えばペテロが逮捕された時、緊急の祈り会が開かれました。この使徒の働きにおいて、大事な場面ではことごとく祈りがなされています。祈りは教会と離れた所では存在しないのです。それは何か大きな節目においても、通常の生活にも欠かすことができない教会の営みでした。神の計画が進展する際には必ず祈りが伴い、力強い歩みをした初代教会の背後に祈りがあったことは見逃してはなりません。

私たちの祈りの生活はどうでしょうか。それは私たちの神との関係を正直に映し出す鏡であり、霊的な健康を測るバロメーターと言えるでしょう。今もし祈りがマンネリ化していたり、祈ることが難しいならば、自分が祈りについて無力であることも正直に祈りたいと思います。

教会が専念すべきものは、みことば・交わり・聖餐・祈りです。あなたは今、この4つのことを専念しているでしょうか。私たちのクリスチャンとしての歩みを考える時に、この原点に立ち返りたいと思います。