「心の貧しい者は幸いです」
マタイの福音書5章3節

 子育てをしていると、日々色んな発見があります。2歳の娘は階段から下りたい時、親の私に身を任せて飛び込んで来ます。そこには「絶対受け止めてくれる」と信じ切る姿があります。私はそのような娘の姿を見ながら「誰かを信頼するとはこういうものか・・・」と学ばされました。
キリスト教信仰も本質的に「信頼」であり、主なる神に身を任せるものでしょう。そのためには自分の無力さを認めた上で、自分より大きなお方に委ねる必要があります。それが神を信じることの原点にあるのではないでしょうか。

1.心の貧しい者

さて、主イエスが山上の説教の冒頭に語った「八福の教え」の最初に来るのは、「心の貧しい者は幸いです」という言葉です。これは一見よくわからない言葉ではないでしょうか。「心が貧しい」と聞くと、心が狭い、ケチで愛がない人、あるいは無気力な人を思い浮かべるかもしれません。けれども、主イエスがここで言わんとするのは「霊において貧しい者」のことです。その人は自分を頼みとせず、神のほかに行き場がない人。つまり、心の貧しい人とは「自分は神なしには生きられない」人のことです。ちなみに、ここでの「貧しさ」という言葉は、ちょっと貧しいということではなく、無一文の破産状態を表しています。だからこそ、心の貧しい人は、全面的に神の恵みにすがろうとするのです。
そのような姿は、旧約聖書にも見出せます。例えば、イザヤ書57章15節では「わたし(神)は、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む」とあります。また、詩篇51篇17節には「神へのいけにえは砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません」とあります。この時、ダビデは罪を悔いて身を低くし、神に赦しを乞いました。そのような砕かれた心を持つ人を、神は蔑まれません。
その態度は主イエスの語った「パリサイ人と取税人の祈り」(ルカ18:9-14)のたとえでも出てきます。そこでパリサイ人は自分を誇る祈りをしましたが、取税人は自分の罪を嘆き、「罪人の私をあわれんでください」と祈りました。この取税人こそ神の前で義と認められたというのです。彼は自分に全く望みを置かず、むしろ自分の内には罪への傾きがあり、そこに地獄を見ているんです。そのように自分の罪を認めるからこそ、神の憐れみにすがる。それは十字架の価値を本当に知っている人の姿でもあります。

2.この世の与える豊かさの限界と、それを超える恵み

 一方、「心の貧しさ」の逆は何でしょうか。それは自分を信じ、自分自身で心が満たされている自己満足の状態でしょう。この世では自信に満ちた人が称賛されます。また、現代社会に生きる私たちは、溢れんばかりのモノに囲まれる豊かさを味わい、沢山の情報のシャワーを浴びながら生活しています。しかし、そんな豊かなはずの世界であっても、多くの人々が疲弊し、生きる望みを失ってはいないでしょうか。この世が与える豊かさは、本当の意味で私たちの心の渇きを満たしてくれません。
私たちは自分の心の貧しさに気づくためには、神のみ前に出る必要があります。神のみことばに真摯に向き合う時、私たちは自分が抱える罪の悲惨な現実に気付かされます。人と比べている内は、本当の意味で自分の姿を知ることはできません。「他の人も同じことをしている」と、相対的な正しさの中でどんぐりの背比べをするからです。しかし、神が私たちに求める基準の高さを山上の説教から知らされる時に、私たちは本来あるべき姿を教えられ、そこからかけ離れた愛の貧しい自分に気付かされるのです。
また、心の貧しさとは、自分を卑下して弱々しい人間になることではありません。使徒パウロの姿を考えても、その心は貧しいものでしたが、パウロは決して臆病でなく、主にある勇気に溢れていた。神のみ前で自分の貧しさを認めつつ、そこを主によって満たされ、強くされたのです。

3.天の御国はその人たちのものだから

 なぜ、心の貧しい人は幸いなのか。その理由は「天の御国はその人たちのものだから」と言われます。ここでの動詞は現在形が使われています。つまり、心の貧しい人には、まさに今、天の御国が与えられているという。心の貧しい者の幸い、それは山上の説教の初めに来るべき言葉です。キリスト者の基本は、神に自分を委ねて、恵みを頂く所から始まるからです。水で一杯になったコップには、もう水は入りません。でも、それが空っぽならば水を注ぐことができる。まず空にならないと注げないのです。
またある時、主イエスはこう語りました。「小さな群れよ、恐れることはありません。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国を与えてくださる」と。天の父は、私たちに神の国を受け継がせようと願っておられます。ただ、それを受け取るためには、私たちの心が貧しくなければなりません。
何かを学ぶ人は「もう全部わかった」と思うならば、それ以上学ぶことはできません。仕事においても、自己満足するならば成長はない。生き方においてもそうです。「医者を必要とするのは病人だ」と主イエスは言いました。魂の医者である主イエスに自らの罪の病を訴え、きよめを頂き、赦しを乞えるか。それが私たちの救いや霊的な成長に不可欠です。そのように心が貧しい自分ならば、主にすがる信仰を持っているならば、天の御国は今や私たちに与えられています。ただ、それは完全な形でではない。今も幸いの一部を味わいつつ、終わりの日における完成を目指して、キリストに似たものとなる旅路を歩み続けていく。それがキリスト者です。
自らの貧しさを知って神にすがる人は、主がその人生を治めてくださる幸いにあずかります。私たちは、どこかでまだ自分を信じていないでしょうか。自分を満たすものを、神以外の何かに求めてはいないでしょうか。実際、あなたは何に信頼を置いているでしょう。
自分の内によいものはなく、よいものはすべて神から来る。そのことを受け止める先に、神の恵みのご支配の中で生かされる歩みが始まっていきます。これは最初に信じた時だけのことではありません。生涯にわたって、この「心の貧しさ」を抱いて生きる時に、主が私たちに与えようと願うものを私たちは一つも拒まず、喜んで受け取れる者とされていくのです。