「悲しむ者は幸いです」

マタイの福音書5章4節

「悲しむ者は幸いです」という言葉は、私たちにある種の戸惑いを引き起こします。愚かなたわごとのように聞こえるかもしれません。しかし、それは悲しみを味わい尽くされた主イエスだからこそ、語り得る言葉ではないでしょうか。

Ⅰ. 悲しむ者は幸いです
 この「悲しむ」という言葉には、深い心の苦悩を表す意味があります。信仰生活には悲しみの要素がある、と主イエスははっきり言われるのです。キリスト者ならば、いつも笑顔でいないといけない訳ではありません。神を信じるからこその悩み・悲しみがあります。「いつも喜んでいなさい」というみことばを思い起こすもしれません。ただ、そこでいう喜びもまた、この悲しみの現実を突き抜けた、神の慰めを頂いた先の喜びが言われているのでしょう。

 そもそも、聖書に描かれる救い主の姿は「悲しみの人」でした(イザヤ53:3)。主イエスはご自分の元にやって来る群衆を見て、まるで羊飼いのいない羊のようだと、かわいそうに思われました。また、神に背いてさばきを免れないエルサレムを思って、主イエスは涙を流されました。

 このように考えていくと、ここで言われる悲しみが、何に対する悲しみかが見えてきます。それは人間一般の悲しみというよりも、神への背きに関わる悲しみです。この世のあらゆる悲惨の根にあるのは、人間の罪の問題です。滅びゆく魂を、主は悲しまれるのです。それは私たちの悲しみにもなります。信仰の成熟とは、超然として何も感じなくなるのではなく、むしろ悲しみに敏感になることではないでしょうか。

 この「悲しみ」について、聖書はどう語っているか。それを考える上で、鍵となるみことばの一つは次のパウロの言葉でしょう。「神のみこころに添った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします」(Ⅱコリ7:10)。「世の悲しみ」は死で終わります。「自分は誰よりも不幸で、駄目な奴だ」と思いつつも、神と向き合わないならば、それは自己完結して真の解決に至りません。一方、神のみこころに沿った悲しみは、後悔のない、救いに至る悔い改めを生じさせます。それはあの放蕩息子が家に帰り、父親の懐で自分の罪を悟った心と似ています。神の思いに、私たちの思いが重ねられていく。そんな悲しみならば単なる後悔で終わらず、永遠のいのちに至ります。

 パウロはこのように自らの罪を嘆きました。「私には良いことをしたい願いがいつもあるのに、それを実行できない。むしろ、したくない悪を行ってしまう。本当にみじめな人間だ」(ローマ7:18)。よく漫画などでも、自分の中に天使と悪魔がいる感じが描かれます。天使の自分は良いことを囁き、「そうできたらいいな」と思いますが、自分の内の悪魔の声に引かれ、罪の力に負けてしまうのです。

 自分の姿を正直に見つめる時、何と強い罪の力に捕らわれているのだろうかと思います。ただ、この罪の自覚こそ、本当の回心に至るために不可欠なものです。神のみ前に出る時、自らの姿が神の前にふさわしくないことを知らされ、それが自分を悲しみに追いやるのです。以前は何も感じないで生活をしていました。けれども、自分の思いに潜んでいる罪を思う時に自問するのです。なぜ幸せな人を見て、一緒に喜べず妬ましく思うのか。なぜあの場面で頑なになり、不機嫌に振る舞ってしまうのか。なぜあの人には、きつく当たってしまうのか。何が自分の中にあってこんな風に考えさせ、行動させるのかと。そうして自らの内に住む罪に悲しむのです。

 さらに、私たちが愛に生きようとする先に悲しむこともあります。かつては、そこまで他人に関心がなかったかもしれません。けれども、キリストの弟子として生きる先に、隣人への眼差しが変えられていきます。先ほど挙げた第二コリント7章によれば、パウロはコリント教会の中にいた罪を犯し続ける人を責めなければならなかったようです。教会生活には喜びがありますが、救われた罪人の集まりである教会には問題も起こります。パウロの牧会もまた、涙と苦労に覆われていたようです。そのパウロの厳しい手紙を読んだ人々は深い悲しみを覚えたようです。けれども、彼らは神のみこころに添って悲しんだので何の害も受けず、むしろ人々が救いに至る悔い改めに至りました。だから、パウロはその手紙を送ったことを後悔せずに、むしろ喜び、慰めを受けたのでした。

Ⅱ. その人は慰められるからです
 ところで、「慰め」という言葉を聞いて、はかない気休めのようなイメージを持つかもしれません。けれども、神の下さる慰めは、悲しみを喜びに変える力があります。パウロは「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」と悲しんだ直後に、キリストに感謝しています。神のみこころに沿って悲しむ者を、キリストは慰めて下さいます。自分の罪におののき、「このような自分をどうすればいいのか」と圧倒される悲しみを、主イエスは背負って下さいました。だから、自らの罪深さに打ちのめされる時、「あなたの罪は赦された」という御声が聞こえてきて、安堵することができるのです。私たちが自分の罪を嘆き悲しむ時、いつも慰めの泉が流れてくるのは、あの十字架からです。

 だから、自らの罪を悲しむ時、まっすぐ十字架の元に行くのです。それは私たちが決して離れてはいけない救いの源です。十字架において、私たちは神との平和を得ることができます。ここにしか、本当の意味での救いはない。十字架において、私たちは神との関係を取り戻し、私たちは父なる神の子どもとされます。その人には、神が味方となって下さる。私たちはこの世でなお悩むことがありますが、それ以上に、神の慰めを受ける者とされるのです。

 そして、その慰めは終わりの日に完全なものとして与えられます。その望みが、ヨハネの黙示録21章で新天新地の幻として描かれています。そこでは、神が人々とともに住む姿があります。その時、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取って下さいます。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。悲しみが完全に癒やされ、慰めに取って代わるのです。この世ではうめきの現実があります。けれども、主にあってそれを受ける人の悲しみは、確かに慰められる。この世では、その慰めを一部分しか味わえません。けれども、神の国が完全に実現する時、主を信じる者は確かな慰めを受けるのです。今の悲しみは、やがて喜びに変えられる。だからこそ、この地上の労苦は無駄にならないのです。

 神のみこころを知らされた人は、罪がもたらす悲惨を悲しみますが、その人は神から慰めを受けます。これは見過ごされがちな信仰の逆説です。悲しむべき現実、自分や他人の罪と向き合うのは辛いことです。けれども、その先に神の国の喜びと慰めがあることを覚えたいと思います。