クリスチャン精神科医ポール・トゥルニエが書いた「強い人と弱い人」という本があります。「世の中には、生まれつき強い人と弱い人がいる」と一般的に思われがちかもしれませんが、トゥルニエは人間をそう単純には切り分けられないと言います。「外に現れる反応は様々だが、実は人間はそれほど大きく違わない。人は誰でも知られたくない弱さを持ち、隠しておきたい心の秘密を持っている。ただ、怖れに対する反応の仕方が違うのだ。一方に、自分の弱さを知った上で神の恵みにすがる弱い人がおり、他方には、自分の強い反応、力の価値を信じる弱い人がいる」。そのように論じつつ、真の強さの源を信仰の内に見出そうとするのです。
さて、今回は主イエスの語った3つ目の幸いについて考えます。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」。これは現実に即した言葉でしょうか。むしろ、世の中では自己主張の強く、人を押しのける勢いのある人が、結局のし上がっていくように思われないでしょうか。なぜ主イエスはこのように語られたのでしょう。
Ⅰ. 柔和な者は幸いです
柔和さは、優しいけれど頼りない「軟弱な性格」に誤解されがちかもしれません。しかし、聖書に描かれる柔和な人々は、「鋼の強さを持つ柔らかさ」を持っています。尊大さを感じさせず、我慢強い忍耐を備え、それでいてへりくだった優しさを含む性質。その背後には、神の公平な取り扱いに自らを委ねる信頼があります。柔和な人は、神が味方だと知っているから、他の人に対して優しくできる人なのです。
「柔和」の対義語としては、「傲慢・争い好き・我の強さ」などが挙げられるでしょうか。そのような人は、力で他人や状況を支配しようとします。一方、物腰柔らかで優しい人を褒める時、「あの人は柔和だ」と言われたりします。ただ聖書が語る「柔和」は、聖霊がキリスト者の内に作り出す実の一つに数えられます。生まれつき穏やかで優しい性格の人がいますが、聖書の語る「柔和」は生来の気質とは違います。御霊が私たちの内に生み出し、全てのキリスト者がそうなるように召された姿でもある。元々短気な人も、あるいは控えめな人も、いずれも聖霊によってこの柔和な性質を帯びていくのです。
この柔和さが、幸いの教えで3番目に挙げられる意味も考えたいと思います。心貧しく、罪に悲しむ先にある「柔和さ」について言われています。柔和な人は、自らを誇りません。自分を見つめる先に、誇るべきものは何もないと知っているからです。ロイドジョンズはこのように言いました。「真に柔和な人は、神も他の人も、自分をこんなによい者に見て、扱ってくれることに驚いている人である」。自分は弱い罪人だと自ら認めるのは比較的簡単かもしれません。でも、他人から同じことを言われると腹が立つことがないでしょうか。ですが、柔和とは自己防衛に走らず、他人から光を当てられることを許す姿勢なのです。
聖書には、そんな柔和な人たちの実例がいくつもあります。その最たる例がモーセです。エジプトから60万人以上の民を率い、荒野の40年を導いたリーダーです。だから、弱いはずがない。むしろ人々への苛立ちを露わにしたり、人々と対決する時もありましたが、基本的に民のためにとりなし続けた人でした。モーセは神が味方だと知っていたので、他人に対して柔和に振る舞えたのではないでしょうか。
また、主イエスはご自分を指して、「わたしは心が柔和でへりくだっている」と言われました。主イエスは、重荷を負う人々に真の平安を与えようとされました。十字架にかかる直前には、軍馬ではなくロバの子に乗る平和の王としてエルサレムに入られました。一方、神のみこころが蔑ろにされる所では荒々しく振る舞いました。偽善を責める姿と柔和さは、主イエスの内に調和していました。
私たちはこの聖書の語る柔和という態度を、自分のものとしているでしょうか。自らの我を通し、肉が勝って自己主張する所に留まっていないでしょうか。御霊の促しに従って、自らの内にへりくだる心を形造られたいと願います。
Ⅱ. その人たちは地を受け継ぐから
次に考えたいのは、「その人たちは地を受け継ぐから」という約束です。この言葉を考える手がかりは詩篇37篇にあります。そこでは自分の力により頼み、他人を押しのけて地を獲得しようとする悪を行う者が出てきますが、その人は草のように枯れるという。だから、悪を行う者に腹を立ててはいけない。主が正しいさばきをして、その生き方に報いられるからです。
一方、悪が行われる現実の中で、信仰者がどう生きればいいかを教えています。「主に信頼し 善を行え。地に住み 誠実を養え」(3節)とあります。周りを見渡すと色々な問題が起こり、悪がはびこる現実に心が騒ぎます。しかし、その状況も神がご存知だと信じて、地に足の着いた歩みをすることが勧められています。11節では「柔和な人は地を受け継ぎ」と言われます。その柔和な人とは、主に信頼し(5節)、自分を主に委ね(5節)、主を待ち望み(7節)、主の前で静まり(7節)、神に身を避ける人(40節)です。その人には何が約束されているのか。主がその願いをかなえ(4節)、主が成し遂げてくださり(4節)、その人を高く上げて地を受け継がせてくださる (34節)。そのように主はご自分に信頼し、みこころに叶う歩みをする人を顧みて下さいます。恵み深い主を知り、我を張る自分に打ち勝つ先に、神が引き上げて下さるのです。
ちなみに、主イエスが語られた「地を受け継ぐ」という言葉には未来形が使われています。柔和な人は主イエスと同じように、この世にあって苦しみを経験します。一時的に悪が栄える状況と同居しなければなりません。ですが、この地上の人生にあってキリストと共に生き始め、新天新地が現れる時にはそれを受け継ぐのです。
最初に紹介したトゥルニエの本はこう結ばれていました。「キリストは生きている。もし彼に心を開くならば、キリストは私たちの心を満たす。そこで私たちは自分の弱い反応から解き放たれ、自らの弱さについてもっとよく知るようになる。また、自分の強い反応からも解き放たれ、それだけでなく、何ものにもまして強い力を彼から与えられるのだ」。強い反応・弱い反応のいずれにしても、自分の流されやすいパターンに支配されるのではなく、キリストにある柔和さを私たちのものとさせて頂きたいと思います。パウロは言いました。「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持っていないようでも、すべてのものを持っています」(2コリ6:10)。そんな信仰の逆説を体験し、内なる強さを養わせて頂きたい。その内に「柔和な者が地を受け継ぐ」という約束が、既に部分的に成就しています。終わりの日には、確かで完全な報いとして与えられることでしょう。