マタイの福音書5章1〜10節
ガリラヤの風薫る丘で主イエスが語られた有名な教え、それが「山上の説教」です。かつてインドで非暴力運動を行ったガンジーは山上の説教を愛し、無神論者ニーチェはこれを呪ったと言われます。そのように賛否両論含めて「キリスト教の看板」ともいうべき独特の魅力を持つのが、この山上の説教です。一方、最も理解されず、最も守られていない教えが山上の説教ではないかという人もいます。美しい言葉がそこにあったとしても、それはあくまでも理想論で、実際に行うのは無理だという見方もあるでしょう。ただ、その高い道徳観に惹きつけられ、実践しようとした人もいます。例えば、ロシアの文豪トルストイは山上の説教を一生懸命生きようとしましたが、結局は挫折しました。主イエスが語られたこの御言葉に対して、私たちはどう向き合えば良いのでしょうか。
Ⅰ. 山上の説教とは何か
人が信仰に導かれる上での急所があるとすれば、それは「自分が神の前で罪人だとわかる」ことではないでしょうか。生まれながらの私たちには、自分の罪がわかりません。かつての私もそうでした。神がおられることは信じていましたし、教会生活も慣れ親しんでいました。でもある時、自分の中に根がないと気付かされたのです。自分の調子が良い時は良いクリスチャンだと思い、逆の場合は、救いの確信を失いそうになる戸惑いを経験しました。そのような悩みを抱えていた時に、北栄教会の牧師館の交わりに導かれました。色々と話をする中、問題の中心は、どうやらキリストの十字架の意味がわからないことだと気付かされました。「自分の罪がわからなければ、キリストの十字架の意味もぼやける。そうすると、キリストと何の関係もなくなる」そう言われて、ショックを受けました。ただそんな時に「自分の罪を知るためには、ロイドジョンズが書いた『山上の説教』という本を読むといい」とアドバイスを受けました。それは名説教者ロイドジョンズが山上の説教を丁寧に語り抜いたメッセージ集で、それを読み進める内に自分の信仰の捉え方が揺さぶられました。
簡単に言えば、山上の説教で主イエスが問題にしているのは、私たちのうわべではなく心だということです。周りの人から隠し通せたとしても、自分が密かに抱く悪い考えや自己中心な思いが、いかに主のみこころからかけ離れているかを知らされたのです。山上の説教の前で自分を吟味する時、私たちの内にある偽善や愛のなさ、的はずれな考えが容赦なく明るみに出されます。誰も自分の力で、この通りに生きることはできません。誰でも簡単に実践できるとか、「自分はそれなりに従えている」と考えるならば、まだ本当の意味では向き合えていないのでしょう。
ある意味で、山上の説教は自力で救いを得ようとする「律法主義」を終わらせるために語られたとも言えるでしょう。律法主義はいつも中途半端な厳しさで私たちを苦しめますが、厳しさが徹底していないから、自分の頑張りで何とかなる発想にもなります。しかし、山上の説教の前で自分を吟味する時、私たちは皆、神の基準に及ばないことを思い知らされるのではないでしょうか。
では、これは神の求める基準を知らされはするものの、実行不可能な夢物語に過ぎないのでしょうか。いや、この山上の説教は「主イエスの弟子」が行うべき事柄として語られています。これは神の国の福音を知らされた人が、その頂いた恵みに応答した先に、このように行わせて頂ける生き方です。山上の説教は「こうすればキリスト者になれる」と言うのではありません。むしろ、「あなたはキリスト者なのだから、このように生きなさい」と言われるのです。この主のことばを行うためには、御霊によって新しく生まれなければならない。そして、聖霊の働きによって造り変えられる中、神の恵みによって山上の説教を生きるものとされるのです。
ですから、山上の説教を単なる道徳の教科書として、自力で良い人間になるために読むのは的外れです。もしこの生き方をしたいと願うなら、まず救い主と出会い、救いを頂かなければなりません。その上で聖霊の助けによって、主のみこころをなさせて頂く。その順序が大切です。私たちは救われるためにみことばを守る訳ではありません。けれども救われて罪赦された者は、神の栄光を現し、山上の説教を生きる者へと召されているのです。
さらに、主イエスご自身がこの山上の説教を生きられたことを忘れてはいけません。主イエスの生涯を学ぶ時に、自ら語られたみことばに主イエスが忠実に生きた姿が書かれています。そして、主イエスが十字架で死んでよみがえられたのは、私たちが山上の説教に生きる者とされるためだとも言えます。そして、私たちは山上の説教に従えば従うほど、主にある幸いを経験させられていくことでしょう。
Ⅱ. 神の栄光を現す幸い
その幸いについて、3-10節に8つのことが言われています。これは「人間には8つのタイプがある。心の貧しい人と、悲しむ人と…」と別々に考えられるのではなく、一人のキリスト者の生き方を様々な角度から記したものです。それにしても、ここで言われる幸せは、世の常識から考えると一体どこが幸せかわからないものではないでしょうか。世の中では、自分の願い通りになることが幸せだと考えられています。けれども、この世が与える楽しみや満足はいくら味わってもきりがありません。主イエスはそれと全く逆の幸いがあるといいます。むしろ私たちの幸せは、神との関係にかかっていて、あなたが本当に幸せになりたいならば、ここに道があるというのです。ここで言われた幸いの教えは、神が世界をどのように見ているかを教えてくれます。神の目から見た幸福観です。私たちは神のかたちに似せて造られたので、その神を離れて、本当の意味で幸せになることはできない。神だけが私たちに真の喜びと満足をもたらし、何によっても揺るがされない平安と慰めを与えることができるのです。
普通なら、問題が起こらないことが幸せの条件と考えられます。けれども、キリスト者はどんな事態が起こっても全てを治めておられる神の御手があることを知っているので、最終的には平安がある。それを思えば、何があっても揺るがない神の恵みのご支配に入れられていることは、本当にありがたい慰めではないでしょうか。
山上の説教の中心テーマは「神の国」です。それは神を王とする生き方・キリストを主とする生き方で、世でもてはやされる生き方と対照的です。この世の文化とは正反対の、神の国の住民の姿が描かれています。神の栄光を現す者の姿は、主イエスが語った山上の説教の中に鮮やかに示されています。もし私たちが山上の説教を生き始めるならば、人々は、キリストの福音には生きた力があることを知るしょう。神の栄光を現す者となるために山上の説教を学び、聖霊の助けを祈りつつ歩んで参りたいと思います。