「死にて葬られ、よみに下り」

ヨハネの福音書19章28節〜42節

聖書によれば、イエス・キリストは神の子ですから、本来死ぬことはあり得ないはずでした。でも、そのお方が十字架にかかって死なれた。この事実は何を指しているのでしょう。

Ⅰ. 十字架上の渇き v28-30
十字架が最悪の刑罰である理由の一つは、じわじわ苦しみを長引かせるところにありました。主イエスも息を引き取られるまで、6時間ほど十字架上で苦しまれた。「わたしは渇く」とは、そのような中で出た言葉です。それは単に、肉体的な喉の渇きだけではなく、人間の罪を一身に引き受けたものでした。敵に取り囲まれ、神との親しい交わりも失われ、孤立無援の状況。「渇く」と言われるのは、「決して渇かない水を与えよう」と招かれた主イエスです。でも、そう語った主イエスがここで渇いている。一体どういうことでしょう。
私たちは罪がもたらす悲惨について、あまりピンと来ません。何かのトラブルに巻き込まれて苦しみ、罪を犯して罪悪感を覚えることはあっても、神と完全に切り離され、見捨てられる恐ろしさはわからない。それは終わりの日まで保留され、誰もそれを経験していないからです。しかし、主イエスは私たちの罪から来る、人間の苦悩と悲惨を先に味わい尽くされました。「渇く」という言葉が示すのは、神から引き離されたことによる地獄です。その苦しみは、私たちの想像を超えています。渇くはずのないお方が渇いている。これは私たちの渇きの源である罪を、身代わりに引き受けて下さったからです。十字架上の渇きは、私たちに決して渇かない水を与えるために、避けられない苦しみでした。

だから、主イエスは最後に「完了した」と言われるのです。それは「もう終わりだ」という絶望の叫びではありません。むしろ、救いの御業を成し遂げられた勝利宣言でした。主イエスは贖いの御業を完了させ、救いのドアを開かれました。もはや十字架で赦されない罪はないのです。
生きる時間が長くなるにつれ、色々な重荷を私たちは背負います。中には、誰にも話せない過去の罪があるかもしれません。でも、それに苛まれる時、この「完了した」というみことばを思い出して下さい。死にて葬られ、よみに降られたイエスが、神の子がご自分のいのちと引き換えに、赦しを勝ち取って下さった。十字架のもとに帰る時、私たちの赦しがそこにあり、何度でも新しい出発を切れるチャンスが与えられている。私たちの救いは、キリストの十字架にかかっています。
悩みをきっかけに、「自分は一体何者か」「どこから来てどこへ行くのか」といった根源的な問いを私たちは抱きます。これに対してクリスチャンは、こう答えることができる。「私は神の子が十字架で死なれるほどに、神に愛されている。かつて罪人として生まれ、死ぬべき者だったが、今や死からの勝利が与えられ、永遠に神のもとで安らうことができる」と。キリストが贖いを成し遂げて下さったために、私たちは究極的なさばきを恐れる必要がありません。いかなる苦しみや死の床においてさえ、独りではない。死にて葬られ、よみに下されたキリストを信じる時に、私たちの死は全ての終わりではなく、新しいいのちへの始まりとなるのです。

Ⅱ. 死んで葬られる主イエス v31-42
主イエスが葬られた経緯についても、ヨハネは丁寧に記します。律法によれば、木にかけられた死体は、その日の内に除く必要がありました。人々はこの処刑を速やかに過去のものとし、祭りを祝いたいと思いました。自分たちが殺した方こそが神の子だと知らずに。そこでピラトに願います。受刑者の脚をハンマーで叩き折り、呼吸困難に陥らせ、早く死なせるように。そこで兵士たちは、主イエスと一緒に十字架につけられた二人の脚を折りました。しかし、イエスの所に来ると、明らかにすでに死んでいたようです。この時の主イエスには、十字架で長く生き永らえる体力も残されていませんでした。ただ、念のために一人が、主イエスの脇腹を槍で突き刺した。すると、すぐに血と水が出て来ました。この現象は医学的にも色々な説明がなされますが、確実な死の証でした。
ただ、ヨハネにとってこれは特別な意味を持っていました。そこで、調子を変えて読者に訴えます。「これを目撃した者が証ししている。それは、あなたがたも信じるようになるためである。その証しは真実であり、その人は自分が真実を話していることを知っている」(35節)。福音書を読む人々に、この出来事を通して何かを信じるようにと招きます。淡々とした記述ですが、「聖書が成就するため」というような言葉を重ねて使い、キリストの預言を指し示すのです。
ヨハネは特に、ここで2つのみことばを取り上げます。まずは、36節の「彼の骨は、一つも折られることはない」という言葉。これは過越の祭りにおいて語られたものであり、ヨハネは主イエスを「過越の羊」に重ねています。主イエスは「世の罪を取り除く神の子羊」でした(1:29)。
もう一つは、「彼らは自分たちが突き刺した方を仰ぎ見る」という言葉。これはゼカリヤ書の預言ですが、兵士が主イエスの脇を突き刺したことに、このことを見ています。さらに少し先には、「その日、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」(ゼカ13:1)とあります。これこそまさに、キリストの十字架において実現したことでした。「血と水」の流れにおいて、罪と汚れを洗いきよめる泉が開かれた。「血」は罪の赦しを表し、また「水」はきよめと新しいいのちの象徴です。決して渇かない、永遠のいのちの水。それはこの十字架から流れ出るのです。
ここでヨハネがしるしを見た一方で、ローマ兵たちはそれを全然意識しません。彼らにとってイエスは単なる囚人の一人で、単にその死を確認したに過ぎませんでした。けれども、ヨハネはその背後で神の御手が働き、救いの御業が完全に成就したことを信仰の目で捉えました。順番に足を折られたのに、不思議にも主イエスの足は折られなかった。そして、突き刺された脇腹から血と水が流れ出る。暗闇の力が勝利しているかのように見える現実の背後に、確かな神の支配があったとヨハネは証するのです。
私たちも十字架を前にして、そこに何を見るか問われています。「イエスの死」があったこと自体は、誰でも同意できます。でも、そこに罪の赦しと永遠のいのちを与える泉が開かれたことは、信仰の目を通してでしか見れません。聖書は私たちに、その眼差しを持つようにと招くのです。主イエスの十字架は、あなたの罪のためです。その代価が既に支払われ、救いのみわざは完了している。あとはこれを受け取るだけです。
ヨハネは主イエスの葬儀を行った二人の名も残しています。アリマタヤのヨセフはいわば隠れキリシタンでしたが、「何か自分にできることはないか」と考えたのでしょう。勇気を出して、主イエスを葬りたいとピラトに願い出ました。ニコデモも立ち上がり、高価な大量の香料を持って来ました。彼らはかつて人目を恐れて、自分の態度を明らかにしませんでしたが、ここで勇気ある行動に出たのです。これは、彼らにしかできないことでした。この献身を、神は不思議な形で用いてくださいました。もしこの申し出がなかったら、主イエスの遺体は共同墓地に投げ捨てられ、あるいは獣の餌食になったかもしれません。しかし、ヨセフは新しい墓を用意し、ニコデモと共に手厚く葬りました。それが後に、復活の大きな証拠となったのでした。
主イエスは私たちの罪を十字架で引き受けて下さいます。あなたを生かすために、ご自分のいのちを注ぎ出し、神の救いの計画を完了された主イエス。十字架から湧き出るいのちの泉を、いつも慕い求めたいと思います。