「あなたがたは地の塩です」

マタイの福音書5章13節

 主イエスは山上の説教の冒頭で「幸いな者」について語られました。心の貧しい者、悲しむ者、義のために迫害される者など、私たちの常識では不幸とされる人々が、神の目には祝福された者であると言われます。そこで言われる「幸い」とは単なるハッピーという感情ではなく、「神に祝福されている」という意味でした。

 この驚くべき「幸いの教え」を聞いた弟子たちは、最初は戸惑ったことでしょう。しかし主イエスと共に歩むうちに、神に祝福された者の生き方を次第に学んでいきました。そんな主イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩です」と告げられます。これは神に祝福された者として、この世で果たすべき使命があるという呼びかけです。

 

Ⅰ. 地の塩とは何か

「塩」はどの時代、どの地域でも人々の生活に欠かせないものでした。冷蔵庫のなかった時代、塩は肉や魚を保存するための貴重な手段であり、また調味料として料理の味を整え、肥料として農作物を育てるためにも使われました。

 主イエスは、弟子たちを「地の塩」と呼ばれました。つまり、弟子たちはこの地上に欠かすことのできない存在だということです。たとえ迫害を受け、社会の中では小さな存在であっても、彼らは世界の腐敗を食い止める力をもっている。主はそのように言われたのです。

 ヨハネ17章で主イエスは「彼らは世のものではないが、世に遣わされた」と祈られました。キリスト者は、神に属しながらも、この世に派遣された者です。信仰は心の中だけに閉じ込めるものではなく、日常生活のただ中で表されていくものです。

 塩は、調味料入れの中に置かれているだけでは意味がありません。料理に混ざってはじめてその力を発揮します。同じように、私たちも「この地に足をつけて生きる」ことが求められています。日曜だけ信仰者の顔をするのではなく、普段の職場・学校・家庭の中で、神の恵みをしみ込ませていく。それが地の塩として生きるということです。

 第一に、塩は「保存料」としての役割を持っています。この世は、放っておけば罪によって腐敗していく傾向を持っています。戦争や暴力、嘘や不正、利己的な風潮――ニュースを見るたびに、人間社会がどこか壊れかけていることを感じる人も多いでしょう。

 テクノロジーが進歩しても、それを用いる人間の心が歪んでいれば、破壊の道具にさえなります。今、世界ではドローンやAI兵器が人のいのちを奪う時代になりました。身近な所にも不正や搾取が潜んでいます。神を見失った世界は、崩壊に向かっているように見えます。けれども、そこに塩があれば、腐敗の進行を遅らせることができます。私たちは世界を救うことはできません。しかし、腐敗を防ぐことはできる。目を覚ましているクリスチャンは、人を信じ過ぎずに神を信じ、神の御心に従って生きようとします。そのような生き方が、自然と周囲に良い影響を与えるのです。

 第二に、塩は「調味料」として働きます。塩は料理の味を引き立て、全体を調和させます。同じように、キリスト者は自分の周囲にいる人を生かし、その人の良さを引き出す存在です。

 パウロは「あなたがたの言葉が、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい」(コロサイ4:6)と書きました。「塩味の効いた言葉」とは、愛と恵みに満ちた言葉です。それは相手を刺すような強い言葉ではなく、思いやりと真実に満ちた言葉。そんな言葉を語る人が一人いるだけで、場の空気が変わります。ある信仰の友にそのような「塩味の効いた人」の姿があるのを思い出しますが、その人と話していると不思議と元気が出て、同時に自分の生き方を問い直されるのです。その人は、主との深い交わりの中で塩気を与えられているのだろうと思います。

Ⅱ. 塩気の効いた生き方

 主イエスは「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょう」と言われました。塩が塩気をなくすなどということがあるのでしょうか。当時の塩は岩塩で、不純物が混じると味を失うことがありました。「塩気をなくす」という言葉には、「愚かになる」「本来の目的を見失う」という意味もあります。クリスチャンも神を忘れて自分の使命を見失うと、塩気を失ってしまいます。旧約のイスラエルが偶像に倣い、祝福の民としての使命を果たせなかったように、私たちもこの世に埋没してしまう危険があります。

 信仰の戦いを避け、神よりも自分の安楽を優先するとき、私たちはこの世と同じような存在になってしまいます。けれども、主イエスは弟子たちに「あなたがたは地の塩です」と宣言されました。これは「いつかそうなりなさい」ではなく、「すでにそうなのだ」という確かな約束の言葉です。私たちは完全ではありません。古い性質が残り、時に失敗もします。それでも、主は私たちを見捨てず、もう一度塩気を取り戻させようとされます。主イエスにつながり、みことばに聞き、祈りの中で主と共に歩むとき、再び心が清められ、塩気が与えられていきます。塩に塩気を戻すのは、主ご自身なのです。

 この社会には、あらゆる場所で「地の塩」が必要です。学校、会社、地域、家庭――それぞれに神が置かれた持ち場があります。あなたが今いるその場所は、偶然ではありません。主があなたをそこに遣わされました。そこには不正があり、争いがあり、無関心があるかもしれません。けれども、あなたが地の塩としてそこにいることで、空気が少しずつ変わっていきます。家庭では、親が子を愛し、子が親を敬う姿が、神の国のしるしになります。職場では、誠実に働くことが証しになります。利己的な世界であっても、他者のために祈り、仕えることが塩の働きです。私たちはこの社会の中で少数派です。しかし、塩は少量でも全体に行き渡ります。目立たなくても、なくてはならない存在です。神は私たちを祝福の基として、この地に派遣されました。

 主イエスは、「あなたのおかげで、この町がまだ滅びずにいる」と言われるような役割を私たちに託しておられます。それほどまでに、地の塩としての使命は尊いのです。自分の小ささや弱さを感じたとしても、主が「あなたがたは地の塩です」と言われたその約束に立ちましょう。主があなたを造り変え、聖霊が働き、あなたを通してこの地に恵みをしみ込ませてくださいます。この月も置かれた場所で、主に信頼しながら歩みたいと思います。あなたを通して、主の恵みの味が世界に広がっていきますように。