「われは天地の造り主を信ず」

2021年9月
創世記章1節―2章3節
牧師 中西 健彦

 私は高校時代に生物学に惹かれ、大学で分子生物学を専攻しました。クリスチャンである私にとって、細胞の複雑さを学べば学ぶほど、そこに現された神の知恵に驚かされました。近代科学の父といわれるニュートンは言いました。「私は海辺で遊んでいる少年のようだ。時折、普通のものよりもなめらかな小石や、かわいい貝殻を見つけて夢中になっている。真理の大海は、すべてが未発見のまま、目の前に広がっているというのに」。確かに、この世界は豊かな多様性を持っています。聖書はその冒頭から、この壮大な世界を造られた神がいることを記しています。今回は使徒信条にもある「天地の造り主」という言葉に注目し、この世界の創造について考えてみましょう。

Ⅰ. 無からの創造 v1-5
 聖書は「はじめに神が天と地を創造された」という言葉から始まります。これは聖書に馴染みのない人に衝撃を与える言葉ではないでしょうか。日本では自然・動物・人間…あらゆるものが神とされます。しかし、聖書の語る神はその神観と根本的に違います。この世界の一切のものが神によって無から造られたというのです。創造主にライバルはいません。「我は天地の造り主を信ず」と告白することは、あらゆる偶像に背を向けることを意味します。私たちの存在は、この世界を造られた創造主によって支えられています。だから、いかなる被造物にも究極の信頼を置かないのです。
 1節は天地創造という出来事の要約であり、その後にこの世界が造られる過程が記されます。2節では「茫漠」という珍しい言葉が使われていますが、それは生き物が住めない、何にもない状態を表します。その茫漠とした地が、神の言葉によって人の住める地とされていくのです。この世界は神の言葉によって造られました。「神は仰せられた。すると、そのようになった」という言葉が繰り返されます。神が語られると、そのまま実現するのです。さらに、神は造られたものを評価し、その境界線を区切り、名付けられる。その秩序の中で世界が形造られていきました。この天地創造の記述は、1週間という枠の中で造られたように描かれています。これに関しては様々な解釈がありますが、何よりも大事なのは「神が世界を造られた」という主張です。親が小さな子供にもわかる言葉で教えるように、神様も人間にわかる言葉で語られました。創造の行為は人間の理解を超えた神秘です。
 「神ならば世界を造って当然」ではありません。造るも造らないも自由な中で、神はこの世界を創造されることを選ばれました。この世界が今の形であることにも意味があります。天地の造り主を信じることは、この世界にあるもの、そして私たちの存在の意味を見出すことにも繋がっていきます。天地創造の記述を読む時、私達はただこの世の成り立ちを云々いうだけに留まらず、この世界を今も存在させ、そこに意味を与える神がおられることを信じるのです。「はじめに神が」という言葉は、世界の中心に神ご自身がおられることを教えます。だから天地の造り主を信じる時、人生の主役は自分でなく、私たちを造られた神ご自身だと認めるのです。

Ⅱ. 良き創造 v31
 主は一つ一つのものを造られる度に、それを良しと見られました。宗教改革者のカルヴァンは、この世界を「神の栄光の舞台」と呼びました。私達は自然と向き合う時に、畏敬の念を覚えます。この世界には神様の遊び心ともいうべき、彩りと多様性があります。パウロは被造物、つまり自然を見るとそこに神の本性、神がおられる証拠があると記します(ロマ1:20)。被造物には、いわば神の指紋が押されているのです。偉大なデザイナーである神はご自分の造った世界を喜ばれ、私たちもその世界の豊かさを楽しむように招かれています。
 天地の造り主を信じる時、私達は偏った禁欲主義から解放されます。神の造られた物はみな、本来的に良いものであることをパウロは知っていました(1テモテ4:4)。神はこの世界の恵みを、私たちにも分け与えて下さいます。人々は自然の美しさに感動しますが、さらにそれを信仰の目で見る時、創造主を賛美する理由になるのです。また、芸術的なセンスのある人たちは、自分の奏でる音楽やあるいは製作を喜び楽しむでしょう。このような活動において、私達はわずかながらも神の創造的な活動をまねて楽しんでいるのです。
 人によって興味の持ち方は様々ですが、この世界のものを学ぶことは本来楽しいことです。近代科学の誕生も、天地創造を信じるキリスト教信仰の土壌があったからだと言われます。地動説を唱えたことで有名なコペルニクスは心から神を敬う司祭でしたし、宗教裁判にかけられたガリレオもまた、神を信じるクリスチャンでした。ある神学者は「科学者は創造の祭司だ」と語り、自然という神の書物を明らかにするのだと言います。そのように信仰は、この世における学問を励ますものです。神は人をエデンの園の管理者として、そこを耕させ、守らせました。私達はみこころに従って、この地を守り、さらに発展させる務めが委ねられているのです。

Ⅲ. 創造の回復
 このように神は良い世界を創造し、今も関わり続けておられます。しかし、私達の目には、とても良いとは思えない痛みや悪の問題があることに気づかされます。人間の罪によって、非常に良かった世界は歪められてしまいました。環境破壊による異常気象をはじめ、富と快適さを必要以上に求めた先に様々な問題が起こっています。だから、この世界は悪いものだと悲観的に捉えそうになるかもしれません。しかし、なおも主は世界に良いものを残して下さっています。神は私たちの心を満たそうとされ、今も恵みを確かに与えられておられます。もちろん堕落後の世界には問題が山積みですし、罪や呪いの悲惨さを過小評価することはできません。ただ、この世界を必要以上に低く見ることも誤りなのです。
 神はこの世界を、本来の良き姿を回復しようと働いておられます。パウロはロマ書8章で、この世界が人間の罪によって虚無に服していると語りますが、いつか滅びの束縛から解放され、神の子たちの栄光の自由にあずかるといいます。聖書の語る救いは、単に私達が天国に行けるという個人的な問題に留まらず、この世界全体の回復を目指す壮大なスケールを持っています。神がいつか悪を滅ぼして下さること、世界を本来の姿に戻して下さる希望を見据えながら、この世界の呻きを担いつつ、神の御前に立つのです。

 天地の造り主を信じるかどうかで、私達の世界の見方は大きく変わります。聖書の中に「伝道者の書」という異色の書物が含まれています。「空の空、すべては空」という伝道者は、この世のあらゆる知恵と快楽を味わった末に言うのです。「あなたの若い日にあなたの創造主を覚えよ」と。そして、神を恐れて生きることが、人間にとって全てだと結論付けるのです。
 われは天地の造り主を信ず。このような信仰は、現世利益という価値基準で幸せを考え、科学で世界と人間を全部説明しようとする世の発想とは根本的に異なります。神が深いご計画の内に、私達を特別の意図を持って創造され、この世界に目的を持って、大切な使命を果たさせるためにこの世界に置かれたのです。この創造主は今も小さな私達を支えておられ、この世界にある良いものを与えて下さっている。だからこそ創造主を恐れ、感謝と賛美をささげる歩みを重ねたいと思います。