「われ信ず③ ―不確かな自分を委ねる」

2021年8月
マルコ9章14〜27節
牧師  中西 健彦

 普段から、私達は色々な事柄を信じながら生活しています。病院では、医師を信頼してその指示に従います。結婚や職業選択でも、相手や会社を信頼するという決断が伴います。科学的な知識や論証が重んじられる時代である一方で、それと別次元の問題もあるわけです。聖書の語る神への信仰も、神を知った上で信頼することを指しています。

Ⅰ. 不信仰な世を嘆く主
 今日の箇所には、主イエスが栄光の姿に輝いた直後(9:2-8)、弟子たちの所に戻ると暗闇のような現実が待ち受けていたことが書かれています。ある男性が、主イエスに訴えました。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れて来ました。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくださいとお願いしたのですが、できませんでした」(17節)。主イエスはそれを「ああ、不信仰な時代だ」と嘆かれました。弟子たちの不信仰のために、主のわざが妨げられていたのです。
 後に弟子たちが敗北の理由を主イエスに尋ねると、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません」(29節)という答が返ってきました。弟子たちも、通り一遍の祈りの言葉を唱えたかもしれません。でも力がありませんでした。想像するに、彼らはこれまでの実績を元に、主に頼らずして事を行おうとしたのではないでしょうか。これまで主イエスのそばで沢山の力あるわざを見てきました。自分もそれに加わらせて頂くこともありました。だから先生がいなくても、あの時の真似をすれば同じようにうまくいく…と思ったのかもしれません。でも、そこにはマニュアルのような信仰が入り込んでいました。彼らは祈りを失って、問題を解決しようとしていたのです。かつて彼らも、主のわざを行っていました。でも弟子としての歩みを重ねる中で、いつの間にか主に信頼することをやめていました。
 私達も、いつの間にかマニュアル的な信仰生活に陥ることがあります。惰性で祈り、機械的に聖書を読み、奉仕を「こなす」ことが、微妙な仕方で私達の中に入り込んでくるのです。でも、主を信頼することは、クリスチャン歴が短くても長くても、その時々においてずっと問われる課題です。これまで頂いた恵みや実りに感謝しつつ、でもその経験により頼まず、日々主から力を頂くのです。信仰を持つことは、神と共に人生の旅路を歩むことです。

Ⅱ. 不信仰な自分を委ねる信仰
 主イエスは「その子をわたしのところに連れて来なさい」と招かれ、父親に尋ねます。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか」。父親は「幼い時からです…しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と答えました。控えめな願いが、父親がこれまで味わった失望を物語っています。期待する分、裏切られた時のショックも大きい。だから、期待通りにならなかった時の備えをしているのかもしれません。
 それに対して、主イエスは「できるなら、と言うのですか」と父親の姿勢に挑戦されるのです。「できるなら」という言葉に、主イエスを信じ切れない心が含まれていました。いわば逃げ腰の、中途半端な態度です。主はそんな彼に「信じる者には、どんなことでもできる」と言います。大胆な宣言です。でも、主はご自身の内に、その信頼に答える用意があるからこそ挑戦される。この父親の目の前にいるのはただの人ではなく、神の子キリストでした。信仰の基本は、「主に不可能なことは一つもない」と告白することでしょう。なぜなら、私達の信じる方は全能の主であって、みこころならば必ず成る、そのようなお方だからです。信じるものには、どんなことでもできる。そんな信仰が求められるはずです。その意味で、主イエスはこの父親に「問題はあなたが私を信じているかどうかだ」ということをつきつけています。
 この時、父親は主イエスの言葉を受けて叫びました。「信じます。不信仰な私をお助けください」。この言葉には矛盾があるように思いますが、この父親にとっては決死の叫び、自分の全てをかけた精一杯の告白でした。信じたい。でも正直に自分の心を探る時に、十分な信仰などない。けれども、その不確かな自分に固執して自分の中にとどまるのではなく、その自分さえ主に委ねようとする。「信じます」と告白した時、彼は「もしできれば」という自分が傷つかない程度の、守りの態度を断ち切りました。自分をそのまま主の前に投げ込んだのです。このように信仰とは、半信半疑の自分さえ、主に明け渡すことなのでしょう。「貧しい信仰しかない」と不甲斐なさを感じても、このお方に自分の心を変えて頂くように願い、助けてもらうのです。そもそも信仰自体、神から与えられる賜物です。ただ、その主の御業に自分の心を開きますという意味で、まず「信じます」と告白する。その意味で、「信じます、不信仰な私をお助けください」という祈りは、究極の信仰の叫びなのです。
 これはクリスチャンに共通の叫びではないでしょうか。私達は主を信じることにおいてさえ、主の助けを必要としています。貧しい信仰、疑い、純粋でありたいと願っても、神の前ではとても完全とは言えない自分。「不信仰な私」なのです。でも、結局のところ、私達はそんな不確かな自分を主に委ねるかが問われているのでしょう。主が求めているのは、確固たる信念を持って生きるというよりも、不完全な自分を認めた上で、そんな自分さえも委ねる信仰です。自分の存在をこのお方に賭けるのです。救いは、信じる私の確信の度合いによって左右されるのではなく、「どなたを信じるのか」、信じる相手にかかっています。
 また、22節では「私たちをお助けください」と言っていたのが、24節では「私をお助けください」に変わっています。息子の癒しを願うつもりが、この父親自身が主イエスと1対1の所に引き出されている。やはり「われ信ず」という信仰が問われているのです。そもそも、彼が主イエスのもとに向かったこと自体が、既に信仰の現れでした。そしてさらに、主はこの人を取り扱い、さらに進んだ信仰告白へと導かれるのです。
 この父親の叫びに応じるように、主イエスは悪霊に出ていくように命じると、「信じる者には、どんなことでもできる」という言葉がまさに実現しました。この父親は、これまで主イエスの噂を聞いただけだったかもしれません。しかし、自分の全てをかけた信仰告白の後に、主の権威を直接知ることになりました。神学者アンセルムスは「知らんがために、我信ず」といいました。知るために信じるのです。神を知ることは、知識を蓄えるだけでなく、実際にこのお方を信じる時に可能になります。礼拝に集い、祈り、みことばを聞いて、従ってみることはまさにその始まりでしょう。
 私達に求められる信仰とは、主に信頼し、不確かな自分を委ねることです。私達の内には信仰と不信仰が同居しているような現実があります。そこでありのままの自分、自分の弱さや疑いを告白して、なおもこの方に委ねるのです。主イエスは私達の不信仰を取り扱い、決死の叫びを聞いてくださいます。「われ信ず」と神の前でひとり告白する時、逆説的ですが、私は一人ではありません。信仰とは、この神が共にいて下さる事実を受け入れ、それを望みとして生きていくことです。もはや自分だけを信頼する必要はありません。「われ信ず」と神に信頼する時、このお方がより頼むべき岩となって下さる。この信仰告白の前提にあるのは、まず主イエスが私のところに来てくださった事実です。「われ信ず」と告白する私達のために、神は御子を遣わし、いのちをかけて愛して下さいました。このお方に「信じます、不信仰な私をお助けください」と叫ぶものでありたいと思います。