「われ信ず②―信仰告白の意味」

2021年7月
ローマ10章8〜17節
牧師  中西 健彦

 小学生の頃、サッカークラブに所属していました。ある日、練習を早退せねばならず、友達と二人で先生に伝えに行きました。その時、その友達が「今日は予定があるので途中で抜けます」と言ったので、私は彼が代表して伝えてくれたと思い、何も言わずにいました。先生はそれを認めましたが、私も一緒に帰りかけた所、「おい、お前の口からは聞いてないぞ」と呼び止められました。振り返れば、その先生は自分のことは自分で伝える責任があると教えたかったのでしょう。
 これは信仰を告白することにも当てはまります。「神様、私はあなたを信じます」という信仰を、誰かが代わりに言ってくれるわけではありません。それぞれが一人で神の御前に立ち、「私は信じます」と言い表すのです。また、それは密かになされるものではなく、他の人にも知られる公の側面も併せ持っています。今回は「われ信ず」という言葉に込められた信仰告白の意味について、ご一緒に考えてみましょう。

Ⅰ. 救いを受け取るために v8-13
 ローマ人への手紙10章では、私たちがどのようにキリストの救いを頂くのかが記されています。9-10節には「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。「いかにすればクリスチャンになれるのか」という問いに対する答がここにあります。まず、自分の口で「イエスを主」と告白すること。それは自分の心の王座にイエス様をお迎えし、このお方に自分明け渡すことの表明です。もう一つは、自分の心で「神はイエスを死者の中からよみがえらせた」と信じること。キリストの十字架と復活を受け入れ、それを信じるのです。「心に信じて、口で告白する」という2つの事柄は、分かちがたく結びついています。キリストの福音を心から信じるならば、それは言葉と生き方にも現れるのです。
 ただし、私たちの現実を考える時に、口と心がバラバラになることがあるかもしれません。日本ではしばしば本音と建前が使い分けられます。一方に、信仰を心の中だけに限定する落とし穴があります。「イエスを主」とする時、これは主イエスが喜ばれるか、あるいは悲しまれないかと考えるようになります。例えば、聖書で明確に罪だと言われている何かに遭遇した時、葛藤します。その時、聖書に素直に従うことより、波風立てずに周りに合わせてしまうことがあるかもしれません。また他方、言葉や行動に信仰がついていかない場合もあります。クリスチャンらしい振る舞いはできても、心がそこに伴わないのです。
 しかし、パウロはそんな私達に「心で信じて、口で告白する」信仰こそ、生ける神へのふさわしい応答だといいます。代々の教会は、それぞれの時代の中で神の語りかけに聞き、それに応答する事で主への信仰を言い表してきました。使徒信条もその一つです。信仰を告白して生きるとは、どっちつかずの曖昧な態度をやめ、キリストの旗の下で生きることです。そこでは神が教えてくださった福音、また信ずべき事柄に対して、自分の全存在をかけることが求められています。使徒信条には「〜せよ」という命令はありませんが、それを本気で信じる時に、生き方にも影響を与えるものになるはずです。この信仰告白こそ、教会の一致の土台です。教会はイエスを主をとして「われ信ず」と告白し、それゆえに豊かな救いにあずかった者たちの群れなのです。

Ⅱ. 信仰の生まれるところ v14-17
 では、その信仰がどのように生まれるのでしょうか。そこでパウロは信仰が生まれるプロセスを明らかにします。「しかし、信じたことのない方を、どのようにして呼び求めるのでしょうか。聞いたことのない方を、どのようにして信じるのでしょうか。宣べ伝える人がいなければ、どのようにして聞くのでしょうか。遣わされることがなければ、どのようにして宣べ伝えるのでしょうか。『なんと美しいことか、良い知らせを伝える人たちの足は』と書いてあるようにです」(14-15節)。畳み掛けるようにして、主を呼び求める所から遡っていきます。救いの源として行き着くのは、他ならぬ主ご自身でした。主がみことばを語る者を遣わし、そこで語られた福音を聞く人に信仰が与えられるのです。そして、「ですから、信仰は聞くことから始まります」(17節)と結論が述べられる。信仰を持つためには、神に遣わされた人の言葉を聞かねばなりません。それは福音、キリストについての言葉です。イエス様を信じる信仰は、みことばを聞くことから生まれます。この箇所は、私にとって説教者の原点に立ち返らされる言葉です。みことばの宣教は、心に信仰を芽生えさせ、人を救う言葉です。それは説教者が考え出した言葉ではないし、自力で救うことでもありません。御霊の働きを願いつつ、聖書の言葉を忠実に語ることを通して実現します。これは説教者でなくても、それぞれが置かれた所で出会う人に証をする時に同じことが言えます。
 ただし、福音を聞けば自動的に人が信じるわけではありません。「しかし、すべての人が福音に従ったのではありません」(16節)とある通りです。パウロは同胞のユダヤ人たちが福音を受け入れないことを悲しんでいました。パウロの語る言葉は、良い知らせとして素直に受け止められるか、あるいは反発や無関心を引き起こすかのどちらかでした。この福音宣教の両面を知っておく必要があります。素直な心でそれが受け入れられる場合もあれば、反発されることもあります。それは生まれつきの人間の姿を思えば当然でもあります。通常、十字架の言葉は愚かに映ります。しかし、聖霊なる神がその心の目を開いて下されば、御言葉を伝えることが信仰を生み出す鍵となるのです。
 「われ信ず」という信仰告白を生み出すのは、みことば自身です。福音の良い知らせは、キリストの十字架と復活によって私達の外からもたらされました。私達には何もないにも関わらず、神が私達を愛し、キリストを遣わし、罪と死から救い出して下さいました。この世界を造られた神が、私達のために死んで下さった。その驚くべきドラマが福音の中に刻まれています。私達を恵もうとされる神は、世の何ものにも代えがたい慰めと希望を与えて下さいます。その良い知らせを、私達はただ受け取るだけで良いのです。罪の縄目から解き放たれ、罪の奴隷だった私達が全く自由な神の子供とされ、この世界で神の国を建て上げていく特権が与えられました。このようにして、福音・みことばを聞くことが信仰の源泉なのです。だから、パウロはあらゆる人に何としても福音を伝えたいと熱心でした。その福音のバトンが私達にも渡されています。結果は主に委ねながら、聖霊の助けを祈りつつ、福音の種を蒔き続けたいと思います。
 「われ信ず」と告白する信仰は、みことばの福音を聞くことから始まり、それが信じる者の言葉と生き方において実を結んでいきます。信仰は心で信じて、口で告白し、生きるものです。それぞれの課題は違いますが、神様に信頼して一歩ずつ歩んで参りたいと思います。