「私を造られた神を信ず」

詩篇8篇1〜9節, ヘブル2章5〜9節
牧師  中西 健彦

前回、「天地の造り主」という言葉から世界の創造を考えましたが、そのみわざの中には、私たち一人ひとりも含まれています。皆さんは普段、自分についてどのように考えているでしょうか。何かの物差しで自分を測り、他人よりも優れていれば優越感に浸り、逆ならば劣等感に苦しむことがあるかもしれません。自己受容の問題は、人生でずっと問われ続ける課題でしょう。私たちは自分自身を受け入れる根拠を持っているでしょうか。聖書はそれがあると語ります。「われは天地の造り主を信ず」という信仰告白の中に、自分を受け入れる秘密が隠されています。

Ⅰ. 神の作品としての私たち
創世記1章によれば、人間は天地創造のクライマックスとして、神のかたちに似せて造られました。その理解を背景にして、詩篇8篇が作られました。全地にわたる主の御名の力強さが、この詩篇全体を貫くテーマです(1節)。それは具体的にどういうことでしょう。「あなたの指のわざである あなたの天 あなたが整えられた月や星を見るに 人とは何ものなのでしょう」(3節)。この詩篇を作ったダビデは元羊飼いで、後にイスラエルの王になる前も、あるいは王になってからも敵から逃れて荒野で過ごすことがありました。その中で野宿をし、夜空を見上げたこともあったのではないか…と想像します。この世界を信仰のメガネで眺める時、そこに神の栄光の劇場が広がっていることに気づき、賛美が湧き起こってきます。考えてみると、人間は神と世界の接点のような存在です。この世界だけを見るならば、ただ物事が起こっているだけかもしれません。しかし、人間はその出来事を見つめ、そこに神の栄光を見出すことができます。

さらにそれだけでなく、この世界の造り主が、小さな私たちにも目を留めておられることを覚えたいのです。ダビデは言いました。「人とは何ものなのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とはいったい何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(4節)。宇宙や自然の壮大さに比べれば、自分は砂粒のように思うかもしれません。そんな小さな自分にも関わらず、主はその人生を導いて下さいます。

この理解に立つならば、自分や周りの人たちの見方も変わってきます。人は自分が生まれた理由、なぜここにいるのかという存在意義を、心のどこかで求めているのではないでしょうか。その時、神様の目に自分がどう映っているのかを考えてみたいのです。精神科医の神谷美恵子さんは、著書の中でこのように記します。「人生の出発点はいつかといえば、まさに受胎の瞬間だろう。もちろん本人も母親も、ましてや父親もそれを自覚しているわけではない。このことは考えてみれば、驚くべきことである。自覚的存在だといわれる人間なのに、その出発点が、自分にも他人にも気づかれないのだ。人生は始まりからして人間の意識を超え、同じく終わりの時も意識のまどろみの中で迎えるようにできているらしい。自覚的存在などとは簡単にいえなくなる」。生まれる時から死ぬ時に至るまで、私たちは自分について実は知りません。しかし、主こそ、私たち一人ひとりの誕生に立ち会い、終わりの時まで看取って下さるお方です。「天地の造り主」を信じると、この「私」が造られた理由がわかります。一人ひとりは「神の作品」なのです。たとえ寝たきりになったとしても、なおも神のかたちを持っています。能力や生産性で人の価値が計られるこの社会にあって、神様がどのように私たちをご覧になっているのかを忘れずにいたいと思います。

Ⅱ. 歪められた「神のかたち」の回復
また、神はこの世界を人間に任せるという、思い切ったことをなさいました(6節)。ただし、それは世界が台無しにされるリスクを背負うことでもありました。実際、人が神に背いてから、世界には無数の問題が渦巻いています。毎日明るいニュースはわずかで、この世に溢れる罪を知らされます。環境問題一つとっても、とても万物を正しく治めているとはいえない。そのことはヘブル2章6節でも言われています。「神は、万物を人の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした。それなのに、今なお私たちは、すべてのものが人の下に置かれているのを見てはいません」。これが今、私たちが置かれている世界の状況です。

でも、それで終わりではない。このヘブル2章では詩篇8篇の「人」を、主イエスに当てはめています(9節)。罪によって歪められた世界、堕落した人間を回復させる切り札として、まことの人であるイエス様が世に来て下さったのです。私たちは主イエスの内に、神のかたちの本来の姿を見ることができます。醜いことを考えたり、行ったりする自分を見て、神の素晴らしい作品なんて思えないかもしれません。しかし、主イエスを見るとどうでしょうか。もし私たちがみなイエス様のようなら、その世界は全く違う景色になります。一人ひとりが尊重され、互いを愛し、建て上げ、それぞれがいきいきと生きられます。そのような生き方を、私たちは救われてから少しずつ始めています。やがて天国では、私たちが罪から完全にきよめられます。聖書の語る救いは、私たちの罪が赦され、歪められた神のかたちが元通りにされることです。そのために、イエス様が罪を身代わりに引き受けて、十字架にかかって下さいました。この「私」を救うために、神の子が死んで下さったのです。存在の不安を抱え、あるいは他人と比べて自分が受け入れられないで苦しむ時、この聖書の真理に立ち返りたいのです。「自分とは何者か?」という問いへの答は、自分の中にではなく天地の造り主の内にあります。逆に言えば、私たちは創造主から離れて、自らの存在の意味を見つけ出すことはできません。私たちは被造物です。天地の造り主を信じることは、自分が神と全く違うものだと認めることでもあります。「人間らしく生きる」といいつつ、自分の欲のままに生き、神のようになろうとすれば獣のようになってしまいます。それこそ、創造主を見失った人間の姿でした。

けれども、そんな私たちを造り変えるためにイエス様が来て下さいました。聖書はキリストを信じた人を「新しく造られた人」といいます。パウロもこのように言いました。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(エペソ2:10)。救われた者は、神の作品として主の栄光を現して生きるのです。賜物を用いることを通して、学ぶこと、働くことを通して。たとえ病気や怪我、あるいは歳を取ってできることが失われたとしても、なお神のかたちは残されています。試みの中で信仰を働かせて生きる時、そこに神の栄光が現されるからです。

私たち一人ひとりが神の作品です。自分自身を受け入れがたく感じる時、思い出したいのです。世界の造り主が、この小さな私を顧みて下さっている。「役に立つか、成功したか」で価値が計られる社会ですが、聖書の人間観はそれと違うのです。神学者のミラード・エリクソンはこのように記しています。「人は限りがあっていいし、いつも優等生でなくていい。失敗もするし、間違いを犯さないわけでもない。私たちは神ではないし、なることもできないし、なる必要もない。神が最初に世界を造られた時も、人間に限りがある中で『非常に良い』と言われたのだ。ただ、私たちを顧みて下さる神がおられるのなら、それで十分ではないか」。聖書の語る神は偉大な創造主であるばかりか、幼子や乳飲み子たちの口を通して、御力を打ち立てられます。この天地の造り主の眼差しを覚えて歩みたいと思います。