「初代教会の交わり」

「初代教会の交わり」

2019年12月

使徒の働き2章43~47節

牧師  中西 健彦

 

私にとって神学校での印象深い思い出の一つに、単身寮での生活が挙げられます。その寮生活は、神学校における主な訓練の一つでした。毎日持たれる祈祷会、四六時中誰かと顔を合わせる共同生活、守らなければならない沢山のルール。恵みとともに時に緊張感と葛藤を覚える生活の中で、「交わりにおいて、何が本質的に大切か」を度々考えさせられました。この経験は、教会での交わりを考える上でも一つの糧となりました。今日の箇所では、初代教会の生活風景が描かれています。ここから初代教会の交わりが何に特徴づけられるのかを、3つの点から考えたいと思います。

Ⅰ. 恐れを生じさせる交わり v43

第一に、初代教会の交わりの特徴は「恐れ」です。43節によれば、教会の存在自体がすべての人々に恐れを抱かせたというのです。皆さんは、この「恐れ」についてピンとくるでしょうか。私はこれまで出会った尊敬するクリスチャンを思い起こしました。その人々はそれぞれ人間味がある人たちですが、一方でキリストへの献身ゆえの厳しさも同時に持ち合わせている人々です。そこに愛と親しさはあっても、変に人間的な馴れ合いはなく、一人一人が筋の通った生き方を心がけているが故に、その人達と関わる中で自分の生き方が問われることもしばしばでした。その生き方と言葉を通して、「あなたは信仰生活の怠惰さをごまかしていないか。なぜもっと神を頼る生き方をしないのか。自分の知恵にばかり頼っていないか。あなたの持っているものを捧げきっているか。あなたは今のままでいいのか?」と問いかけてくるのです。その一人一人の性格は様々ですが、それぞれが主との生きた関係を持っているように思われます。このことを思えば、私たちが神との親しい交わりに生きる時、単に温かい愛だけでなく、きよさも身に帯びることになるはずです。

神が恐るべき方なので、教会もその性質を帯びるのです。私たちの主を恐れる生き方が教会にきよさをもたらし、それが外部の人々をも恐れさせるものに伝わっていったのでしょう。神への恐れ・きよさへの感覚は、教会が失ってはならないものです。神への馴れ馴れしさや罪に対する甘えから守られ、神への恐れときよさの感覚を保つ私たちでありたいと思います。

Ⅱ. 助け合う交わり v44-45

第二に、初代教会の交わりの特徴は「互いに欠けを満たし、助け合う愛」です。44節「信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた」。初代教会には深い信仰の一致がありました。そこから生まれてきたのが「ささげる行為」でした。これは現代人にとって驚かされる記述ではないでしょうか。彼らは物惜しみをせず、一切のものを共有していました。財産や所有物を売り、身を切って教会のためにささげました。でも、「果たしてそのようなことは可能だろうか?」と疑問を抱く方もいるかもしれません。ちなみに、ここで持ち物を売ることは個人の自由に委ねられており、自分の財産を持つのが禁じられたわけではありません。ただ、そうであっても、初代教会ではそれぞれが自発的にささげ、与えたいと言う願いを持っていました。彼らは「自分のために蓄えたい」という思いから自由にされていたのです。このように自発的にささげることができたのは、彼らが神の恵みを実感していたからでしょう。主を恐れる心と、主を喜び賛美する思いの絶妙なバランスがそこにあり、その生き生きした救いの喜びの中で、これが行われていたのです。そのようにキリスト者の交わりは、趣味の集まりとは違って、犠牲的な愛によって成り立つのです。

身近なことで置き換えると、このようなケースは私たちの教会にもあります。例えば、教会運営や新会堂建築のために一人一人が時間とお金と労力を、主に献げています。教会開拓のために共に祈り、支えている。そのことを考えると、今置かれている環境の中で助け合う・献げることは、程度は違えど、私たちも行っているのです。45節の「売っては、分配していた」とは、「必要が生じる度に」という意味の言葉が使われています。そのような互いに助け合う精神は現代の教会にも継承されています。なぜそれほどに恵みを共有するのか。その答えは、それが神の愛の実践であり、キリストの体の欠けた部分を補うことであり、互いを助けることに価値を見出していたからでしょう。

一方、現代社会では〇〇ファーストという言葉が流行るほどに、自分の利益を最大化する風潮があります。「老後は2000万円必要だ」などと言われると、貯めなければと思うのが人間の性でしょう。もちろん計画的な貯金の必要もあります。ただ一方で、この初代教会の生き様は、自分のために過度に貯め込む方に傾きやすい私達にチャレンジを与えています。私たちは「自分のために蓄えたい」という思いから、自由にされているでしょうか。兄弟姉妹を愛するがゆえに分かち合い、主のご入り用に応え、できることをさせて頂きたいと思います。

Ⅲ. 喜びに満ちた交わり v46-47

第三に、初代教会の交わりの特徴は「喜び」です。46節を見ると「そして、毎日心を一つにして宮に集まり」とあります。エルサレム神殿において、礼拝は毎日行われていましたが、彼らはその礼拝に最大の価値をおいて過ごしていた。私たちの言葉で言えば、彼らは教会の中で全時間を過ごしたいと願いました。教会は彼らの生活の中心であり、最大の関心事だった。その礼拝を生活の中心に置く姿の中に、彼らの信仰による深い一致が見いだせます。

さらに、「そして、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、民全体から好意を持たれていた」とあります。これは42節の「パン裂き」の具体的な様子ですが、その食事の交わりの中には喜びと真心が伴っていました。初代教会には恐れと喜びが同居していた。しかも、ここで使われている言葉は「大喜び」という意味があり、喜びが溢れて湧き上がる様子が描かれています。そのような群れであったことによって、クリスチャンでない人々からも好意を持たれ、毎日救われる人が起こされたのでしょう。

伝道の鍵はこの「喜び」です。ロイドジョンズは、「何が人々を教会に導くのか?それは私とあなたがこの喜びに溢れている時である」と言います。しかし、私たちはこう考えるかもしれません。「そんなことを言っても、どのように喜びを味わうことができるのか」と。それに対する答えは、この種の喜びが私たちの感情や情緒を土台にしているものではない、ということです。さらに言えば、私たちのために神がキリストにあって何をなして下さったか、という事実を土台にして考えるべきだということです。私たちが主ご自身の内に喜びを見出している時、自然とこの福音が本当に良い知らせであることが伝わるのでしょう。その喜ばしい知らせを分かち合う時に、伝道は進展するのです。

初代教会の交わりには、神に対する「恐れ」、与えられた恵みを分かち合う「愛」、そして福音から生み出される「喜び」がありました。私達もこの教会の姿に倣い、一致を保ち、主にある成長にあずかりたいと思います。