「金銀はないが、あるものをあげよう」

「金銀はないが、あるものをあげよう」 

2020年1月

使徒の働き3章1~10節

牧師  中西 健彦

 

使徒2章は和気あいあいとした教会の描写で終わっているので、教会とは何か閉鎖的な仲良しクラブだと誤解されるかもしれません。しかし、ルカはその直後に、世に出ていく教会の姿を描くのです。それはごく日常の出来事から始まりました。ペテロとヨハネが、午後三時の祈りの時間に宮に上る様子が記されます。ちょうどその時、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来ました。彼は40歳過ぎの男性で、生まれてこの方歩くことを知りませんでした。きっと彼は人生に多くの期待をせず、ただ今日という一日を生きることで精一杯だったのでしょう。ハンディキャップのために将来の希望を持てず、代わり映えのしないみじめな毎日をただむなしく送るほかなかったかと思われます。

この人のような存在は、科学や福祉制度が進歩した現代にも依然として存在します。それは何も障害を持つ人に限りません。将来に望みを持てず、生活に困窮している人々。仕事があっても家族がいても、どこか満たされない人々。そのように人知れず悩み、潜在的な心の渇きを抱えた人々は数え切れないでしょう。この人は相対的に見て不幸ですが、罪と弱さを抱えた人間の象徴的な姿であるようにも思わされます。

そのような彼の所に、ペテロとヨハネが通り掛かりました。彼はこの二人が誰であるのか知らずに、いつものように施しを求めました。ペテロとヨハネはこの物乞いをする人をじっと見つめ、「私たちを見なさい」と呼びかけました。

このペテロとヨハネの姿勢に、私たちの生き方はどうかと問われます。隣人愛や伝道とは「どこかの誰かに対して」という漠然とした姿勢で取り組めるものではありません。目の前の具体的な一人に注目し、関心を持つことから始まります。私たちはいつでも、このような潜在的な悩みを抱えた不幸の中にいる人と出会う可能性があります。私たちも、誰かをキリストと対面させるために「私たちを見なさい」と言えるでしょうか。弱さを自覚し、それゆえに主を信じるあなたを通してキリストと出会う人がいるのです。

ペテロは「金銀は私にはない」と言いました。この言葉はこの人の期待を裏切る言葉でした。しかし、それよりも遥かにまさるモノ、彼の抱える問題に対する根本的な解決が与えられるのです。彼の願いは叶えられませんでしたが、それ以上の必要が満たされるのです。それは、イエス・キリストご自身でした。ペテロは救い主キリストを知る恵みを彼に与えたのです。この人はキリストの御名によって癒やされ、立ち上がり、歩き出すことができたのです。

キリストの福音、それは一時的な慰めではありません。あなたは、身近で悩んでいる人を生かす根本的な解決、キリストご自身を与えることができるのです。隣に困っている人がいたとして、私たちは何を与えようとするでしょうか。それが、一時しのぎの気休めで終わることはないでしょうか。私たちはまず自らを生かすキリストの福音に預かり、これを与えることができる。ペテロと同じく相手の求めるものは持ち合わせていないかもしれない。ただ、何はなくともあなたはキリストを持っているのです。

「ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」。ペテロは彼の右手を取って立たせました。その瞬間、これまでは立つことも歩くこともできなかったこの人が、足に不思議な力を感じました。足が体の重みに崩れてしまわずに、体を支えたのです。それまで歩いたことのない人が急に歩けるようになる。そこには驚嘆の思いがあったでしょう。彼は元々歩けるようになるとは望んでいませんでした。でも、イエス・キリストの御名が彼を癒やして歩かせました。ここから、彼の主体的な歩みが始まっていくのです。

ペテロは、金銀を与えずとも、この人を真に生かすキリストを与えることができたのです。ペテロたちの何かが彼を救ったのではなく、キリストの御名が彼を救いました。主は今も天で生きて働いておられ、私たちを通してみわざをなさいます。金銀はない。世で求められる即効薬はないかもしれない。でも、私たちはキリストを持っている。それが教会であり、クリスチャンです。施しなどの良いわざを否定するわけではありませんが、教会が何よりもキリスト自身を与えることができることを改めて覚えたいと思います。

トランプ大統領が尊敬するピールという牧師が書いた「積極的な考えの力」という本があります。その内容は、聖書の言葉散りばめながらも「自信を持ちなさい」とか「こうすれば成功する」といった自己啓発が中心です。これは「富と繁栄の神学」という世界中で流行している教えです。ただ、私たちも注意していないと、そのようなものに取り込まれる危険があります。この神学が世界で影響力を及ぼしているのは、それが罪人の心の渇きを手っ取り早く埋められるように感じるからでしょう。しかし、それは本質的な魂の渇きを癒すものではなく、一時的な慰めに過ぎません。私たちは何を人々に与えようとしているのか、立ち止まって問い直してみたいと思います。

歩けるようになった彼は、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行きました。彼はその奇跡の栄光を主に帰したのです。賛美しながら宮へと向かっていった。これは彼にとって、あらゆる意味における主体的な生き方の始まりでした。癒やされたらそれで終わりではなく、神を賛美して礼拝へ向かう。彼は自分の身に起こった神の御業に驚き、感謝を表そうとしたのです。ここで記される彼の動きは、人がクリスチャンになっていくプロセスと同じです。まず助けを求め、主の弟子を見、立ち上がらされ、主体的に歩き始め、賛美して礼拝に向かう。彼は身体的に癒やされただけでなく、霊的な救いにあずかったのでしょう。

癒やされた彼の姿は、否応なしに人々の注意を引きました。人々は、普段からこの物乞いを見慣れていたでしょう。でも、その人が今、歩きながら賛美しているのです。人々は彼の身に起こったことに驚き、ペテロが宣教する契機となりました。この行為によって証しされるのは、ほかならぬ主イエスです。このかつて不幸の中にあった人の存在がキリストを示す、生きた証となったのです。

主の弟子はたとえ金銀を持っていなくとも、キリストを伝えて御名による救いをもたらすことができます。スポルジョンは「伝道とは、一人の乞食が仲間にパンのありかを教えることだ」と言いました。私たちは周りにいるまだ福音を知らない人たちに、私たちの唯一の慰めである福音を伝えることができる。それは、本当の意味で相手を生かす愛のわざです。たとえ今幸せで満たされている人であっても、人生の危機に会い、魂の渇きを覚えることもあるでしょう。あなたの周りに試練に直面している人、あなたに助けを求めて来る人はいないでしょうか。その人に、あなたはキリストを指し示すことができます。あなたがキリストに生かされていることを言葉と生き方において証するのです。私たちが遣わされた所で出会う一人一人に、祈りつつ愛を持って、このキリストの福音を提供するものでありたいと思います。