「悔い改めの先にある恵み」

「悔い改めの先にある恵み」

2020年2月
使徒の働き3章11~26節
牧師  中西 健彦

友人と「アンゲーム」をしていた時のことです。これは色々な質問が書かれたカードを順番に引いて、その問いに答えることで、お互いの考えを知るためのゲームです。私が引いたカードには、「あなたは恥ずかしい思いをしたことがありますか?それはどんなことですか?」という質問が書かれていました。私はしばし過去の歩みを振り返り、「かつて正しいと信じていた自分の言動が、実は人を傷つける振る舞いだったことに気づいた。今ではそれを恥ずかしく思っている」と話しました。それを聞いたある人が「それは良い気付きだね。今では恥ずかしいと思える分だけ成長したってことじゃない?」と言ってくれました。きっと皆さんにも同じことがあるのではないでしょうか。「今なら絶対そんなことはしない」と思う過去の思い出や、無知から来る愚かな言動を、人生の中で重ねていると思うのです。それは信仰を持つことにおいても同じです。洗礼があくまでもスタートラインに立つことに過ぎないならば、その後も多くの気付きと成長があるはずです。では、無知ゆえに犯してしまった過ちを、どのように考えたら良いのでしょうか。今日はそのことをご一緒に考えてみたいと思います。

ペテロとヨハネが生まれつき足の萎えた人を癒やしたことから、一連の出来事が始まりました。驚いた人々は二人の所に殺到し、ペテロはそれを伝道の好機と捉えました。ペテロは人々の目を、自分や癒やされた人にではなく、まっすぐ主イエスに向けさせるのです。このペテロの姿は、キリストを伝える機会があれば、いつでもそれに応える準備をしておくことを教えています。ふとした時に、自分の信じていることを語るチャンスが訪れる。その時、キリストを信じることの恵みを証することができるでしょう。

ペテロはここで、人々がイエスを拒んだ事実を改めて突きつけました。ペテロはユダヤ人である彼らによくわかるように、旧約の預言を自由自在に引用します。ここでペテロは自分が聴衆と同じユダヤ人の一人であることを認めながら、イエスがどなたであるかを論証します。ペテロは、イエスこそご自分の民の身代わりになって罪を贖われた神のしもべであり、第二のモーセなのだと語りました(13, 22節)。

さらに、ペテロは人々に悔い改めを促します。当初は奇跡に驚いて集まってきた人々ですが、思いがけず、自分たちが知らないで犯した罪に直面させられました。ペテロは「兄弟たち」と親しく呼びかけ、「あなたがたが、自分たちの指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをしたことを、私は知っています」と語ります。聖書で「無知」という言葉を調べると、それは何でも許される言い訳になるのではなく、やはり罪の根源であることがわかります。私たちが生まれながらの罪人だとすれば、無知のままでいれば、神に背いて生きることは自然な成り行きです。一方、人々の側からすれば、「わかっていればしなかった」とも言えるでしょう。その点、ペテロは同情的です。彼らがしてしまったことの意味を知らせ、悔い改めを迫るのです。「ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます」。悔い改めとは「方向転換」です。それまでは自分の思うままに生きていた所を、くるっと向きを変えて、神を信じて従う道を選び取るのです。赦しの用意がすでにあるからこそ、これまでの罪を捨てて神に心を向けよ。そうすれば、罪がぬぐい去られる。この勧めは、きょう私たちにもなされています。罪を悔い改めて神に立ち返る時に、あなたも同じように赦しの恵みを頂くのです。神を無視し、隣人を傷つけ、自分本位に生きる罪。主を信じてもなお、無知ゆえに犯す罪も沢山あります。思いも行いも、全部神に知られている。そのことを忘れて、自分の欲に引かれたり、神を悲しませてしまうことがいかに多いことでしょうか。でも、そのような私たちのために、主イエスは十字架にかかって下さいました。

ここで使われる「拭い去られる」という言葉は、紙に書かれた文字を消すというニュアンスで用いられます。当時の紙であるパピルスに書いたインクの文字は染み込まなかったので、それを拭い去るのは簡単でした。そのように、私たちが悔い改めるならば、その罪が完全に赦されるのです。ただ、私たちは実際の人間関係の中で、なかなか人を赦せなかったり、逆に簡単に赦してもらえない経験をするために、「赦し」と言われても信じにくいかもしれません。しかし、神の赦しと人の赦しは違います。もちろん地上の生の営みの中で、罪の結果を刈り取らなければならない面もあるでしょう。ただ、悔い改めて主イエスを信じるならば、最終的な裁きから逃れ、罪そのものが赦されるのです。どれほど取り返しのつかないことをしてしまったとしても、神はそれを贖うためにご自分の御子を十字架にかけ、私たちを赦し、救おうとされる。この神の赦しの偉大さをもう一度覚えたいと思います。

また、この悔い改めは、私たち一人一人が神のみ前で個人的になすべきことですが、それは単に今赦されるだけでなく、終わりの日における回復の約束も含んでいます。20節の「回復の時」というのは珍しい表現ですが、21節の「万物の改まる時」と同じく、救いが完成する時のことが言われているのでしょう。「世の終わり」というと恐ろしいイメージがあるかもしれませんが、それは聖書の欄外注に別訳があるように「慰めの時」ともいわれる。それは世界が新しく創造され、万物が改まってあらゆるものが慰められ、休息を得る時です。

この世界を見渡す中で、沢山の破れが目に止まります。でも、主は終わりの日に全てを回復して、世界を新しく造られるのです。黙示録21章で描かれる新天新地では、私たちを悩ませるものは全て消え去り、私たちが地上で経験するあらゆる喜びにまさる、最上の恵みが満ち溢れることが約束されています。その意味で、悔い改めは単に神と自分との個人的な関係にとどまらず、この終末における回復という大きなスケールの祝福にあずかることなのです。

神はそのしもべであるイエスを遣わし、私たちを罪から立ち返らせ、最高の祝福を与えようとされます。悔い改めの先に、赦しと回復が用意されている。あなたはこの恵みにあずかっているでしょうか。自分の罪を認め、その生き方を捨て、方向転換して神に向かって生きているでしょうか。罪を告白する大切さはわかっても、実際にはなかなか立ち止まることが難しい私たちですが、軌道修正するために主の前に静まる時を持たせて頂きましょう。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」 (1ヨハネ1:9)