「この方以外には、だれによっても救いはありません」

「この方以外には、だれによっても救いはありません」
2020年3月
使徒の働き4章1~22節
牧師  中西 健彦

O・ブルーダーが書いた「嵐の中の教会」では、第二次世界大戦の直前のドイツにおいて、ヒトラー率いるナチス政権が徐々に力を増して行く中で、教会がどのようにそれと戦ったのかが記されています。物語は、グルントという新人牧師が村の教会に赴任する所から始まります。それまで村人は霊的に眠っていましたが、グルント牧師が神の言葉を取り次ぐことによって、教会の改革が始まっていくのです。当時、ヒトラーをキリストのように信奉する「ドイツ・キリスト者」と呼ばれる人々が、教会で幅を利かせ始めていました。その時代特有の緊張感が高まる中で、「イエスだけが主だ」という信仰の旗色を明らかにし、牧師を助ける運動が広がるのです。グルント牧師は語ります。「気楽にキリスト者であることができた時代は過ぎ去りました。誰でもみな、キリストの味方か敵かを決しなければならないのです」。キリスト者が信仰を貫こうとする時に直面する戦い。それは時代や状況が違えど、私たちにも無関係ではありません。実際、それは初代教会が誕生して間もなく起こりました。ある牧師は「何の戦いもない信仰はどこか間違っている」と語りました。私たちは、そのような戦いの現実にいかに向き合えばいいのでしょうか。

使徒3章では、足の萎えた人の癒やしの出来事をきっかけに、ペテロは人々にキリストの福音を伝えました。その中で、いよいよ騒ぎが大きくなって、ユダヤ当局は使徒たちを逮捕しました。これは初代教会にとって、初めて経験する迫害でした。翌朝、民の指導者たちが集まって議会を招集しました。それは、かつて主イエスを十字架にかけるために集まった人々です。ペテロは、かつて主イエスの不当裁判と自らの裏切りを思い出したでしょう。指導者たちは二人を法廷の真ん中に立たせ、「おまえたちは何の権威によって、あのようなことをしたのか」と尋問しました。

そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに語りました。以前ならば圧倒されていたペテロが、聖霊によって大胆に語り始めるのです。ペテロはこの取り調べが「良いわざのため」(8節)という確信を持っていました。相手の顔をはばからずイエスのことを告げ、このように結論します。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです」(12節)。主イエスの他に救いなし。この確信こそがペテロたちを堅く立たせた理由でした。主イエスの御名によって、足の萎えた人が立ち上がる。その出来事が象徴しているように、全ての人々がイエスによる救いを必要としていると言うのです。

ただ、現代社会では「イエスだけが救い主」と言うと反発されることがあります。「これだから、神が一人だという一神教は困る。キリスト教は狭くて排他的だ」と。また、作者不詳の「登りゆく麓の道は異なれど、同じ高嶺の月を見るかな」という歌もあります。宗教は色々あるけど、どれも最終的に同じだろう、という内容です。一見寛容に見えるこの主張は、実は乱暴で、裏を返せば神様はみんな同じだとまとめています。真理について語る際には、どんな主張も排他的な意味が含まれることは避けられません。この傾向は世の人々だけに留まらず、教会の中にも忍び込んでいることがあり得ます。以前、私がKGKで働いていた時、ある集会でこのような質問がされました。「皆さんの中で、キリスト以外にも救われる道があると思う人はいますか?」。すると、何人かのクリスチャン学生が手を挙げました。そこには「自分にとってキリスト教は真理だけど、他の人にはそれぞれの真理がある」という考えが忍び込んでいたのかもしれません。しかし、「イエスの他に救いなし」という教えを捨てるならば、結局何をしても良いということになり、ついには教会に行く理由さえも見出せなくなる。ですから、「誰でも救われる、何でもあり」という考えは人間の目には寛容に映りますが、それを推し進めると、神への愛と信仰を失わせ、結局は自分の目に正しいことを行う罪人の姿に逆戻りしてしまう。

主イエスの他に救いなし。真理のための戦いを戦い抜くためには、この確信がどうしても必要です。「信仰は個人の心の中の問題にすぎないではないか」と、この世は信仰を矮小化しようとしますが、それは聖書が語る信仰と矛盾します。神が支配されていない所はこの世界に一センチたりとも存在せず、だからこそ私たちはあらゆる領域において主を証しすべきなのです。

大祭司を始めとする人々は、ペテロとヨハネの大胆さを見て驚きました。脅しによって相手を萎縮させようとするシナリオが、見事に裏切られた。どうしてこの無学の者が、国家の最高法廷での神学論争をかくも堂々とやってのけたのか、彼らにはわからなかった。ただ、この二人がイエスとともにいたことは分かってきたといいます。彼らはペテロたちを見て、イエスを見ているような錯覚を覚えたのでしょう。彼らはペテロの弁明に対して、返す言葉がありませんでした。そこで、二人を議場の外に出して協議します。彼らにとって明らかに困った事態になりました。ペテロの行った癒やしは律法違反ではないし、今さら奇跡は否定しようもない。もし使徒たちを弾圧するという強硬な手段に出たら、人々の間に騒動が起こるでしょう。彼らこそ問われる側に立っている。ここにはそんな皮肉が込められているようにも思います。

そこで、彼らは苦し紛れに二人を強めに脅すことにしました。でも、それで黙る二人ではなかった。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」。この妥協の余地のないペテロの言葉によって、この指導者たちの権威が大胆にも否定されました。玉虫色の答えをして、体制に手懐けられるような軟弱さはありません。ペテロたちには「主イエスの復活の証人」だという自覚があった。

「嵐の中の教会」でも、このような場面があります。それは、いよいよナチスとグルント牧師の全面対決の時でした。グルント牧師は予め役員を集めて言いました。「教会はもう沈黙を続けることができません。そして、教会は国家の取っている反キリスト教的な態度に対して、公然と発言することに決めました」。そして、礼拝の時に、ナチスの方針を拒否する声明を読み上げるというのです。その時、ある役員が牧師の身に危害が及ぶことを案じて言いました。「先生はただ単純に福音を語っていて下さりさえすれば、それで十分ではないでしょうか」。それに対して、グルント牧師は言いました。「私が考えなければならないことは、それによって私は神様に対する責任を果たすことができるか、ということだけです」。「福音は薄ぼんやりした明るさというものには耐えられません。教会は沈黙していることができず、真理を語るべきです」。

キリストの証人は時に迫害に遭いますが、それを驚き怪しむべきではありません。その時、聖霊はあなたを強め、大胆に語る力や、あるいは毅然として振る舞う勇気と知恵を授けて下さいます。主の証人としての自覚に目覚めているか、霊的に眠っていないか自らを吟味しましょう。もし、そのような戦いに直面している方がいれば、聖霊の力があなたにも与えられていることを思い出して頂きたいと思います。